Ethical Experiment

困難な倫理

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迷惑な道徳家@

 

 倫理とは、本来なら他人と共存していくためのルールであると考えられるが、なかなか人生そうもいかないことがある。精神科医の中井久夫氏によれば、精神的健康者にもいろいろあるそうだ。氏が挙げる健康者のタイプで興味深いのは、@他者を攻撃して自分の健康を保つタイプ、とA他者を狂気に追い込んで自分の健康を保つタイプであろう。どちらも他人を犠牲にして、自分の精神的安定を図る点では一致している。はなはだ迷惑な話?。

 倫理的生活でも、同様なことが起こるかもしれない。欧米では牧師の子どもが、日本では教師の子どもが、非行に走るケースが少なからず見受けられると言うが、中井氏の分類を、倫理的諸人格に当てはめても面白いだろう。他人を道徳的に弱くするという代償を払わないと、自分が道徳的に立派になれない人がいるかもしれない。他人を極悪人にするという代償を払わないと、自分の倫理生活を維持できない人がいるかもしれない。

 まず最初に、「悪気はないのに」他人を弱くするタイプの道徳家から始めてみよう。このタイプは、善意から倫理的に「勧める」が、結果として他者をさらに弱くするタイプだ。

 「男らしくありなさい!」、「強くありなさい!」、「正直でありなさい!」

 なるほど、「お勧め」は正しい。しかし、メッセージが一面的で、聞く人に不可能な無理を強いてしまう。リンゴの木は、ミカンの実を結ぶことはできない。男らしくない人が、「男らしくなる」ことはできない。強くない人は、「強くある」ことはできない。正直でない人が、「正直である」ことはできない。私たちは、私たちが潜在的に「ある」ところの者にしか、決してなることはない。私たちは、弱い人を善意で励ます。しかし、その善意が、その人をさらに弱くしている現実に敏感であった方が良いと思う。

 男らしくない人に、「男らしくあれ!」と勧めると、その人をさらに女々しくするだろう。むしろ、私たちは、「自分が男らしくない現実を、受け容れなさい」と勧めるべきではないだろうか? 自分の女々しさを正直に受容できる人は、ある意味で「男らしい」のではないか? 「自分が女々しいと言う現実を受け容れることも、男らしさの一つだよ」と勧めるほうが善いのではないだろうか? 人にできるのは、自分が現実にそうであるところの現実を受け容れることである。この要求は、誰に対しても、無理な要求では絶対ない。

 人目を気にして、本音を云えない弱い人に、「正直であれ!」と説くのは、その人をさらに不正直にするだろう。むしろ、「自分が不正直であることを受け容れなさい」と勧めるほうが善いのではないか? 一度、自分の不正直さを受け入れれば、その人は、本音が言えない時に、「ごめんね、俺は気が弱いから、嘘つくかもしれないから」と前もって告げる「正直さ」を得るかもしれない。

 もちろん、他人により高いハードルを示して、現在の自分を克服することを勧めることも必要だろう。しかし、そのお勧めは、本人が現実に宿している潜在的な能力を十分に見分けて勧めるべきである。そうでないと、無責任である。リンゴの木は、ミカンの実を結ぶことはできない。私たちが、他人に何かを勧める時、本当の動機は、「弱い」彼を受容する自分の無能力に原因があるのではないかと疑ってみるのも一計である。他人の無能力を矯正しようとする動機が、自分の無能力であったらシャレにならんかも・・。
 続きはまた今度・・。

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