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物という概念は、比較的新しい。原始時代には、いわゆる「物」は存在しなかった。未開人(何をもって未開とするかの基準はないが・・)においては、モノは、内在的力に溢れていた。木は力に満ち、大地は豊穣で、海は悪魔的影響力を誇っていた。山は神々が宿り、星には運命を左右する力があるとされていた。自然には、人間の運命を決定する力が備わっていた。この時代、自然とは、人間が奉献によって、なだめすかしてご機嫌を伺う神的力であった。
ユダヤ・キリスト教の影響で、西欧では、近代以降、モノに宿る力は無視され、科学的計算と技術的観点からだけ扱われるようになった。モノは、「物体」となった。技術にとっては、物体は、それを変形・加工して工業生産に役立てるだけの、資源であった。科学にとっては、分析・分解する知的対象に過ぎなくなった。西洋で産業革命が始まり、その工業力で、西洋諸国がいち早く先進国になれたのは、モノを人間の奴隷としてしか考えない特殊な文化によるものだった。西洋の技術文明は、他の世界にも伝わったが、西洋のようには発展しなかった。原因の一つは、他の文化圏には、モノをたんなる物としてだけ見るセンスに欠けていたからである。言い方を変えれば、他の文化圏は、モノをたんなる物としてしか見ないほど、文化が低級ではなかったので、工業が発展しなかったとも云える。
西洋的なモノに対する態度は、皮肉な逆転現象を伴った。モノを人間の奴隷にしたら、その結果として、人間がモノの奴隷になってしまった。製品を効率的に生産するために工場を建てたら、今度は、人間が工場の一部になってしまった。機械文明が発展するほど、人間は機械の一部になってしまった。生産ラインで働く工員は、自分は人間なのか、生産ラインの一部なのか分からなくなってきた。自分が生産ラインの主人なのか、それともラインの機械が自分の主人なのか分からなくなってきた。皮肉なことに、モノに対する尊敬を失って物を生産したら、自分の仕事自体に対する尊敬が失われた。「モノは、人間に奉仕する物体だ」と思って物を生産しているうちに、自分の仕事の意義も、それに比例して消えてしまった。モノから魂を奪ったら、人間の魂まで消えそうになった。
西洋的技術文化がグローバル化する中で、世界に一つだけ奇妙な例外が存在した。彼らは、「日本人」と呼ばれていた。日本人だけは、モノを物として扱わない伝統を維持しつつ、しかも西洋諸国以上の技術立国になってしまった。彼らは、モノを加工するとき、「モノに魂を吹き込む」と信じていた。モノに自分の魂を吹き込む時には、同時にモノの魂が人間に宿り、人間とモノは「匠」の技の中で一体となった。彼らは、裁縫で使った針に、「ご苦労様」とねぎらうために、供養をする民族だった。彼らは、ロボットに名前をつける。彼らは、フィギュアーをまるで人間のように扱う。料理人は、「野菜の声を聞く」と云い、宮大工は、「木と対話する」と云っている。日本刀を鍛える刀工は、「鉄の声」を聞くと言う。日本人と呼ばれる民族は、モノを作るとき、モノに相談するそうだ。モノを収集することを愛し、集めたモノと心を交わしている。ウワサによると、人形を家族の一員としている日本人もいるそうだ。職人と呼ばれる日本人たちは、自分の仕事に誇りと充実感を感じているらしい。職人だけではなく、マニア・オタクと呼ばれる日本人たちも、モノとの関係に充実感を感じている。世界の中で、モノを「愛して」いるのは、日本人だけではないだろうか?
マルチン・ブーバーを思い出そう。モノを「それ」として扱う人間は、自分も「それ」になってしまう。「私」にはなれない。モノを「あなた」として対話する人間は、「私」になることができる。自分が相手をどう扱うかで、自分が決定されるのだ。人間だけではなく、モノを相手にしてもそうなのだ。モノの中に魂を感じる人は、自分の中の魂も再確認する。愛車の中に魂を感じる人は、愛車と一体になることができる。包丁の中に魂を感じる人は、包丁と一体となることができる。人間は、「人格」とだけ一体になることができるのだ。たとえ、それがモノであっても。
日本人的に物を作る人は、モノの要求を聞く。モノには、「絶対に譲れない一線」というものがある。その声を受け容れる代わりに、自分がモノから感じ取った「何か」を加えさせてもらう。モノと人間が相互に譲り合って、相互に自己実現するのである。マネージメントでだけしかモノを扱えない西洋人には、わからないだろうな〜。
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