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愛は、赦し、受け容れ、慈しむものだと、一般には考えられている。正しい。でも半分だけ・・。赦しは、愛の仕事だが、愛の右手の仕事のなのだ。愛には実は、左手の仕事もあるのである。この問題について深く考えたのは、宗教改革者マルチン・ルターだった。それを、20世紀に再び倫理の問題として取り上げたのが、ティリッヒだった。ルターが、愛の左手の仕事について、真剣に考えざるを得なかったのは、トーマス・ミュンスター率いる農民反乱運動に神学的にも実践的にも対処するためだった。
キリスト教は、博愛の宗教といわれている。キリスト教系リベラル市民団体は、単純にそう自認して、秩序を乱す者だろうが、犯罪を犯す者だろうが、すべてにおいて「赦し」を実践するのが、愛の業だと信じている。ルターは、あまりにも現実主義者だったので、そういう非現実的な偽善者にはなれなかった。ルターは、生まれたばかりの宗教改革運動が、現実世界の現実の問題に対処できなければ、生き残れないと考えたのだ。それでは、「愛の左の業」とは、どのようなものだろうか? 赦しや博愛は、愛の右手の業、つまり愛の本業である。しかし、愛の右手が成立するためには、愛の左手が働かなければ不可能であるというのが、ルターの結論だった。
テロに脅かされる西欧社会も、ルターが直面したような状況におかれている。問題はこうだ。自由主義的民主義社会において、自由と民主主義を否定する言論は、許容されるべきだろうか? 自由を否定する自由を、自由社会は認めるべきだろうか? 民主主義を脅かす運動を、民主主義社会は許容すべきだろうか? ドイツでは、ナチス賛美は認められていない。ホロコースト否定も法律で禁止されている。つまり現実には、自由主義といっても、独裁制やテロの自由は認めない範囲での自由でしかないのだ。自由主義の自由は、無制限の自由ではなく、自由社会自体を崩壊させない程度の自由だけ認めるという「自由」である。独裁制に賛成する自由は、自由社会の原理的基盤を崩壊させるのであり、結果として自由を失うのである。つまり現実的な自由とは、「自由自体を否定するものを否定する」自由なのである。
それでは、愛の左手とは何か? それは、「愛を否定するものを否定する愛」のことである。愛を否定するものを否定しないと、愛自体が消滅してしまう。愛は、愛が存続するために、愛を否定するものを否定しなければならない。そうしないと、愛が成立する基盤が崩壊し、愛自体が消滅する。愛は、愛が消滅することを認めてはいけない。もし認めたら、愛は愛でなくなるのだ。
恋人同士の愛が成立するためには、お互いに誠実でなければならない。しかし、一方が相手の不誠実を容認し続けたら、愛の関係自体が歪曲され、もはや真の恋人同士ではなくなってしまう。見かけ上の関係は、維持できるだろう。しかし、本当の愛の関係は、もはや存在しないのである。そうならないために、不誠実を非難して否定しなければならない。愛は愛を否定する者を否定しないと、愛自体が消滅するのだ。
犯罪者を無条件に赦してしまったら、愛が成立する社会自体が崩壊する。これがルターの結論だった。殺人を許容したら、「寛容であるべき」という愛自体が崩壊するのだ。「不誠実」という「愛の否定」を肯定したら、誠実という愛自体が成立する基盤が失われる。愛は、愛を教えるために、愛を否定する者を否定しなければならない。社会制度において、愛の否定、つまり犯罪を否定しなければ、愛の肯定は意味を失うのである。「愛の否定」を否定しない限り、愛は存続できないのである。野球のルールを否定する者を否定しない限り、野球自体が消滅するように・・・。
皮肉なことだが、刑罰とは、愛を存続させるための「愛の左手」なのである。赦しが成立するためには、裁きが必要なのである。誰にも裁かれないのに、赦す必要があるだろうか? 裁かれている場合にだけ、赦しもまた意味を持つのである。裁きを否定する人は、赦しも否定しているのだ。裁き、破壊、怒り、批判、攻撃などは、愛の左手の業である。親のしつけにしろ、教育にしろ、刑罰にしろ、愛の左手が欠けている時には、愛の右手も存在しない。つまり、愛自体が欠けているのである。本当に愛がある者なら、愛を否定する者を否定する勇気(愛)があるはずだ。そうしないと、愛自体が滅ぶから。愛とは、本質的に自己肯定であり、愛の自己肯定は、愛に反する者の否定と同義語なのである。
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