Ethical Experiment

困難な倫理

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忘れる条件

 

 ニーチェは、「忘れる能力」、つまり記憶の消化が、精神的健康の必須条件であると云ったことは、すでに紹介した。しかし、ニーチェは、その逆、能動的に記憶に留めようとすることについても語っている。人間は、「忘れようとしない」から、人間である。ある人の誠実さは、忘れようとしない意志から生まれる。恩を忘れない、約束を忘れない、借りを忘れない。

 人間の「忘れない意志」は、「忘れられる不安」と表裏一体である。死に対する不安とは、忘れられる不安である。「去るものは、日々に疎し」。「忘れられること」は、自分の生前の存在感が、一番永続的であるはずの場所で静かに始まっていく。肉親や友人は、徐々に時間をかけてだが、「私」を忘れていく。知人は、急速に忘れていく。そのうち、自分が地球にかつて存在した事実さえ、忘れられていく。死の孤独とは、忘れられて忘却の暗闇に一人で消え去っていく孤独であろう。英雄・偉人たちでさえ、「歴史に名を残すこと」、銅像・記念碑の類を残すことに必死になるのは、「忘れられる孤独」が、私たち平凡な人間だけの不安ではないことの現われか? 埋葬という普遍的な作業は、私たちの物理的現存を、土を被せることで、灰にすることで消し去り、忘れられることを強制しようというイジワルのようにも思える。そういう意味では、私たちは死自体が怖いのではなく、忘れられることの方が怖いのかもしれない。そういう意味では、人間は二度死ぬ宿命のだろう。一度は物理的に、二度目はみんなの記憶の中から。例え死んだとしても、決して忘れられることはないという確信と保障があれば、死はさほど怖くないかも・・。

 忘れられる不安が、逆の反動を生むこともある。忘れなくてはいけないのに、忘れることが申し訳ないと感じる罪責感である。死者は、すでに物理的な存在感を失っている。心の中で忘れないことだけが、死者を過去の墓場に埋葬しない唯一の手段だ。忘れないことで、死者はかろうじて「現在」につながる。忘れてしまえば、死者は完全に過去の中に消えてしまう。「私」が忘れない間は、死者はまだ生きている。しかし、忘れてしまえば、その死者は今度こそ本当に死んでしまうのだ。彼、彼女が、消え去らないために、忘れないことで、その死者を生かしつづけるのだ。忘れてはいけないという不安と、忘れなければいけないという不安の葛藤。もちろん、この場合の「忘れない」とは、心のど真ん中に置きつづけるという意味で、「忘れる」とは、新しい誰か、何かを代わりにど真ん中に置くという意味だが。そういえば以前、『世界の中心で、愛を叫ぶ』というテレビドラマがあったが、「忘れられること」と「忘れてはいけない焦り」をよく描いていたと思う。あそこまで劇的なストーリーで、人を好きになることは稀だろうから(ドラマだし・・)、「忘れてしまっては、申し訳ない」と必死に努力することは、私たちの平凡な人生には、あまりないかもしれないが。

 このドラマで、先生が、「あなたは忘れなさい。代わりに私が、忘れないでいてあげるから」というセリフがあったが、まさに的をついている。私たちが安心して、心の中から誰かを忘れることができるのは、時間と空間を越えた何か大きな存在だけは、その人を永遠に忘れはしないと想える時だろう。私が忘れたとしても・・。そして逆もまた真なりで、私たちが忘れ去られる不安を乗り越えることができるのは、私たちよりさらに大きな生命の中では、私たちは忘れられることはなく、その永遠の記憶の中に留まり続けるだろう、と感じられる時だろう。私たちの肉親や友人が忘れたとしても・・。そして、「忘れない意志」は、愛することからだけ生まれる。仮に、私たちが永遠に忘れ去られないとすれば、私たちは永遠に愛されていることになる。こういう確信に初めて達した人は、私が知る限りでは、聖パウロだったと思う。

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