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ティリッヒは、「教育の神学」という小論で、3つの教育観について論じている。1つは誘導的教育、2つ目は人文主義的教育、3つ目は技術的教育。誘導的教育とは、子どもたちを、集団生活に導くことを目的とする教育である。この教育観は、人類が集団生活を始めた時から存在したはずである。家族、部族、民族、国家という制度とその伝統に参加するための準備として、子どもたちを教育する。その集団の価値観を象徴する神話、シンボル、歴史、物語を正しく解釈する訓練が、主な手法だった。人文主義的教育観は、ルネサンスを期に現れた。その目的は、個人の潜在的可能性と人格をできるだけ開花させることである。技術的教育も、人類の歴史と同じく古い。生存と文化の維持に必要な技術を習得することを目的にしていた。
近代以前は、誘導的教育は、技術的教育と密接に結びつきながら遂行された。武士階級は、古典を学び社会の伝統的価値観を吸収しつつ、兵法や武道という技術的教育も平行して習得した。商人や農民も、その階級の伝統に相応しい価値観を身につけながら、商売や農業という技術を継承していった。ようするに、誘導的教育が達成すべき理念と内容を与え、技術的教育が実際的手段を補助していたのだ。
人文主義的教育は、個性の開花と人格の完成を目標にした。誘導的教育の伝統的足かせを脱して、より自由な展望を与えた。とはいっても、西欧の近代初期には、人文主義的教育は、キリスト教的価値観に密接に結びついていて、誘導的教育を補助する形で発展していった。しかし、誘導的教育に対する反動から、人文主義的教育観が伝統的価値観から独立するようになってから、より技術的教育観と強固に結びつくようになる。それと共に、人文主義的教育観は、空虚になっていった。人文主義的教育観は、個性の発展と人格の完成を目指したが、実はその「個性の発展と完成」の具体的内容は、伝統が、つまり誘導的教育が提供していたからである。
人文主義的教育観が空虚になるにつれて、技術的教育観だけが支配的になっていった。教育の目的は、既存の体制に適応するための技術を教えることだけに絞られていった。そういう時代にあっては、「何で勉強しないといけないの?」という子どもの質問に対しては、漫画「ドラゴン桜」のように、競争に勝ち、人生の選択肢を豊かにする技術を身につけることが、唯一の答えとなった。しかし、選択肢を選別する規範は、教えてくれないが・・。
戦後、「伝統」という言葉は、左翼によって「国家権力」と云う用語にすり替えられた。もちろん詭弁だ。西欧の歴史が証明するように、人文主義的教育観は、実現すべき個性の具体的内容を、誘導的教育観に負っているのである。つまり、伝統に負っているのだ。歴史が証明するように、技術的教育観は、つねに補助的役割において意味を持つのである。技術的教育観は、その技術によって何を実現するのかが、明らかな場合だけ意味を持つのだ。
日本の戦後教育は、人文主義的理想から始まり、徐々に技術的教育観が絶対的支配権を握った。教育とは、受験の技術習得になってしまった。人文主義的教育観は、個性の開花という形式を与え、技術的教育観は、市場主義体制において生存する技術を伝授してくれた。しかし、人文主義的教育は、個性が開花するための具体的内容を教えてはくれなかった。技術的教育は、「何のために?」という目的を教えてはくれなかった。
個性を開花させたい。しかし、開花した個性の人格的内容は、どういうものなのか、具体的内容が見えない。目指す理想を体現する人物像は、教えてもらえなかった。「技術を磨け?」と叱咤されたが、何のために努力するのかが分からなくなった。何のために進歩するのか? 実は、人文主義的教育観も、技術的教育観も、その内容と目的を、以前は誘導的教育によって与えられていたのだ。どういう個性を完成するべきなのか、技術の進歩が奉仕する目的は何なのか、その内容と目的は、人文主義的教育観も技術的教育観自体も、与えることはできないのだ。
最近になってようやく、開花するべき個性は、「種子」のように人間に実体的に遺伝されているわけではないことが日本人の意識に昇った。人格の個性の具体的内容は、伝統として継承された価値観だけが提供できるのである。人間は、社会という容器と、伝統という染料に染められてだけ、個性という色を身に着けることができるのである。技術の習得自体は、技術が実現するべき理想像を与えることができないのだ。
誘導的教育観と、人文主義的教育観と、技術的教育観が、絶妙にマッチした配合が、本当は理想的なのだろう。伝統が提供する内容と目的を、個性の発展に役立てながら、それを可能にする技術的進歩を推進する・・、これが理想かも。欧米と違って日本は、妙にバランス感覚がいい。朝日新聞と毎日新聞のネガティブ・キャンペーンを除けば、「改正教育基本法」に対する日本人の反応は、実に穏やかなものだった。誘導的教育観とは、「その集団の伝統的価値観を象徴する神話、シンボル、歴史、物語を正しく解釈する訓練が、主な手法だった」だと云ったが、それを加えないと教育再生も難しいだろう。安部内閣は、朝日・毎日のちょっと品の無いネガティブ・キャンペーンに負けずに、ぜひ教育改革を貫徹してほしい。
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