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以前暮らしていたある国では、「ありがとう」という言葉を、まず耳にすることはなかった。現在暮らしてくる国でも、ほとんど聞くことはない。日本人として、ずいぶん違和感を感じたものだった。私たちはなぜ、「ありがとう」という言葉を、口にするのだろうか?
小生は、「ありがとう」という言葉は、負債の感覚から生まれたと思う。何かをしてもらった。借りができた。与えられたものに対して、負債の念を感じる。何かを返さなければ、負債の念が拭えない。そこで、「ありがとう」という感謝の言葉を返す。これで、バランスシートの赤字はなくなる。
私が暮らしていた外国で、「ありがとう」の言葉を耳にしなかったのは、負債と感じる程度が、日本人と異なっているからだろう。日本人は道を教えてもらったら、「ありがとう」と言う。道を教えてくれた親切を負債と感じるからだ。しかし、私が暮らしている国の人たちは、道を教えてもらったくらいでは、負債だと感じないのだ。よほどの親切以外は、負債だと感じていない。当然のことだと感じている。日本人である私たちも、母が食事を毎日作ってくれても、それを負債だとは感じない。したがって、「ありがとう」とは言わない。
「ありがとう」という言葉が、負債の感覚に結びついているとすれば、感謝の言葉は屈辱感をも伴うはずだ。実際、私たちは、過分な親切を受けた時、「ありがとう」の一言が出てこない。例えば、困窮している時、頼みもしないのに、友人が貯金を降ろしてくれて百万円都合してくれたとしよう。「困っている時はお互い様。遠慮しないで受け取って」と言われたら、私たちは言葉に詰まる。まさにこういう時こそ、心からの感謝の言葉を返さなければいけないのに、「ありがとう!」の一言が出てこない。ただ頭を下げるのが精一杯だろう。
私たちが気軽に、「ありがとう」を口にできるのは、負債ではあるが、「ありがとう」という言葉で返済完了と思える程度の軽い負債のときだけだけである。つまり、真の負債はつねに屈辱感を伴うが、屈辱感を伴わない程度と感じられる負債にだけ、気軽に感謝の言葉が出てくるのである。先の例で云えば、百万円は死ぬほどありがたい。ありがたいと感じるほど困窮している自分の惨めさと、他人に助けてもらわなければ救われない屈辱感が、無言の感謝になるのである。「ありがとう」という言葉では、受けた親切に釣り合わないと感じるからこそ、感謝の言葉が出てこない。逆に言えば、「ありがとう」と云えるのは、その一言分で、借りは返せたと思える程度の時だけである。
私たちは、誰でも、本当に必要なものを与えられた時、「ありがとう」が云えない。与えられなければ生きていけない、自分本来の有限性を意識するからである。自分のナルシズムを壊してしまう。「ありがとう」という言葉では、バランスシートの赤字をゼロに戻せないと悟った時には、感謝の言葉さえ出てこない。貧しいときに面倒を見てくれた恩人を、後年裏切る例が芸能人には多々あるが、それは抑圧された屈辱感が爆発したのかもしれない。親切は、こういう意味でも仇になるのだから、人生は難しい。
感謝の言葉と屈辱感の関係は、私たちが感謝を受ける側にいるときにも現れる。「ありがとう」と真剣に云われた時、私たちは「いいよ、いいよ」と打ち消すが、打ち消さなければ、相手が屈辱感を支払ってでも口にした「ありがとう」が、今度は私たちの負債になるからだ。「相手に、屈辱感の代価を払わせて、真剣にありがとうを言わせた」という意識は、今度は、私たちの負債となって重荷になるのだ。
以前、「善人は赦されることが少ないから、愛することもまた少ない」という旨のことを書いた。善人は、つねに「なぜならば(Because)」という思考で考える。善人が無条件の赦しに抵抗するのは、それが負債になり、ナルシズムを壊し、屈辱感を感じるからである。「赦してもらう」ことほど、ありがたく、また同時に屈辱を感じることが他にあるだろうか? 与えられた親切に「ありがとう」を素直に云えるのは、@相手に十分な貸しがあるか、A「ありがとう」の一言で借りが消える程度か、Bいつでもお返しができる時だけである。
日常生活において、「ありがとう」の言葉を口にするのは、実に簡単だ。しかし、本当に「ありがとう」を口にすべき時に、素直を口にできる人は、成熟した人である。人間の有限性を本当の意味で受容できる人だけが、感謝の言葉を真摯に口にすることができると思う。与えられなければ生きていけないという、単純な真理を、感謝と共に受容できる人だけが・・。
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