Ethical Experiment

困難な倫理

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選択権なし

 

 人間は、自由に行為を選択することができる。無意識の反応も含めて、自由な選択である。心神喪失状態であっても、自分の行為は自分の選択である。しかし、人間には自分の行為の結果に対する選択権はない。結果を自分で選ぶことはできない。結果は必然的に降りかかってくる。降りかかってくる結果の種類を選択することはできない。降りかかってきた結果に対する反応を選択できるのみである。

 口を滑らしたり、カッと怒ったり、無視したり、嫌味を言ったり、さまざまな反射的選択肢の中から、1つの行為・反応を、私たちは選択している(たとえ無意識にであっても)。科学的決定論の1つの欠点は、「この選択は、私の選択ではなく、私の脳の選択である。したがって機械的な反応である」といくら自分に言い聞かせたところで、罪責感を克服することができない点にある。罪責を感じる「私」がいる。「罪責を感じる私も、脳の化学反応に過ぎない」と言っても、「私」の罪責感を少しも薄めてはくれない。

 「結果を選択することはできない」は、「善を為せ」という道徳的命題より、重要な道徳的命題だと思う。必然的にやって来る結果に対して、人間はいかに無力なことか。どんなに頭に血が昇っていても、行為や反応の前に自分に言ってみよう、「結果を選ぶことはできない」と。

 しかし同時に、自分の失敗の結果が、どんなに大きな損失を生んでも、あれこれ悔やんだり、どうにもならないことで頭を悩ましてだけもいられない。人間は結果を選べない点において全く無力である。しかし、降りかかってきた必然的な結果に対する反応を選択することができる。素直に謝ることもできる。罪滅ぼしのプレゼントをすることもできる。結果を潔く甘受することもできる。選ぶ余地が残されているのだ! たとえそれが、どんなに小さな「選ぶ余地」であったとしても、選択できる意識は、私たちに勇気を与えてくれる。

 選択の自由・可能性。ドストエフスキーは、囚人たちにとって、たとえ刑務所内であっても、お金が「選択の可能性」を意味することを理解していた。お金とは、選択の量的な自由・可能性である。貧乏な人が辛いのは、豪奢な生活ができないことではなく、選択の自由・可能性が小さいことである。地獄の地獄性とは、もはや選択の自由・可能性が全く残されていない絶望のことだろう。人間はこの状態に堪えることができない。選択の可能性こそが、人間に生きる気力を与えているのである。自由と可能性は、「私の存在」そのものである。たとえ失敗して、その結果で失うことが多くても、選択の自由と可能性があることを思い出そう。結果に対する反応を選択する自由と可能性が残されているのである。これを意識する限り、人間にとって完全な地獄は存在しない。

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