Ethical Experiment

実感する倫理

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私の潜在性が命じる

 

 今日は、道徳とは何かについての小生の考えをズバリ告白。そもそも道徳的善とは何か? 道徳的悪とは何か? 道徳的善・悪の基準とは何か? 小生の立場は、哲学的には生の哲学者・ニーチェ、神学的には、生の神学者・ティリッヒに負っている。

 両者に共通するのが、生の彼岸に、善・悪など存在しないという立場である。善悪の基準は、生の本質の中に見出されるはずだ。私たちは、「〜しなければならない」と感じる。「〜あるべきだ」と感じる。およそ人間でそう感じない人はいない(乳児を除いて)。しかも真剣に感じる時がある。なぜ私たちは、「〜あるべきだ」と感じるのか? しかも、なぜ命令形で感じるのだろうか? 誰が命令しているのだろうか?

 小生の答え:私たちの生の本質が命じているのだ。つまり、私が私に命じているのである。人間が罪責感から逃げられないのは、私が私を責めるからだ。他人の非難は辛いが、他人が私を責めている限り、しょせん大したことはない。誰も私を知らない南の小島に逃げれば、罪責感はなくなるはずである。しかし、暮らす場所を変えても、無人島に逃げても罪責感は消えない。なぜか? 私を責めるのは、私自身だからである。罪責感が辛いのは、責めている主体が他人(あるいは神)だからではなく、私が私を責めるからである。罪責感と自己嫌悪は、同義語である。他人に嫌われても心の中で笑えるが、自分が自分を嫌悪するのは辛い。しかし、自己を嫌悪する時、嫌われる自己とはなんだろうか? そして、嫌う自己とはなんだろうか?

 嫌われる自己とは、卑小な自己である。しかし、自分のある部分を卑小だと感じる限り、ある一点で卑小な自己を超えている別の自己が存在する。まだ無力な萌芽でしかなくとも、「私」には高貴な部分がある。この段階では、どちらの部分を、「私」の真の存在(本質)と見るべきなのかは明らかではない。しかし、次の段階では、卑小な自己を克服すると、その人は自分の真の存在は、自分自身のより高い萌芽の部分であることを知るのである。

 自分の中のより高い潜在性(萌芽の部分)、これが小生の云う「生の本質」である。私たちを裁くのは、私たち自身の中のより高い潜在的可能性である。潜在的可能性がなければ、「〜できたはずなのに・・」と自分を責めることもない。自分のベストを尽くせば、たとえ負けても後悔はしない。むしろ満足する。後悔とは、「〜できたはずなのに、〜しなかった・・」と感じる場合だけである。潜在的自己が、現実的自己を裁く。これが自責感の本質である。

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