Ethical Experiment

実感する倫理

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衝動の秩序

 

 生物は、「自分−対象」構造で生きている。「自分−仲間」、「自分−獲物」、「自分−敵」というふうに。自分を脅かすものを、自分から区別できなかったら死ぬし、餌と自分を区別できなかったら、自分を足を食べちゃって死ぬ。

 生物は、自分にとっての「世界(対象)」を輪郭クッキリ、内容ハッキリ描きだせないと生きていけない。世界がバラバラに見えたら、自分がバラバラになってしまう。ニーチェは、認識とは、外界からの多種多様な感覚を図式化することだと云っている。つまり、未知のパズルを既知の版型に押し込むことである。世界が秩序だって見えるのは、私たちが前もって世界を図式化したからである。生物として生まれるとは、先天的にこういう能力を持って生まれるということだ。

 生物は、対象を図式化した後、今度はそれを解釈する。つまりそれを価値判断する。自分にとって、有用か危険かを価値判断する。生物は、さまざまな経験を通して価値判断の体系を構築していく。ライオンが近づいたら逃げろとか、この草は美味しいとか。いわゆる学習機能というやつ。

 さて、人間を万物の長と呼ぶらしい。人類は、生物界で最高度に発達した生物だといわれる。しばらく前から、人間はパンツを履いたサルだとか、本能が壊れた動物とけなす論者もいるが、そんな論者でさえ、さすがに自分の愛妻とミトコンドリアを同列には置かないだろう。これらの論者は、生物の完全性と高度性を勘違いしている。生物の完全性とは、潜在的可能性の実現の度合いで判断される。自己の天性の潜在性をより多く実現したゴキブリは、自己の潜在性を少なく実現した人間より、完全性が高い。では、高度な生物を判断する基準は何か? それは対象と区別された自己の内容の豊富さの程度による。

 ミトコンドリアの「世界」は小さい。狭い。「世界」の小ささに比例して、自己は小さい。なぜなら、「世界(対象)」とは、自己と区別されて残った部分だから。人類の偉大さとは:「世界(対象)」が広く大きなことである。

 幼児が大人に劣るのは、その世界が狭いこと、したがって自己が狭いことである。これが、年長者があらゆる文化において尊敬された理由である。世界が広くなれば、自己を構成する内容も広くなる。しかし同時に、自己が広くなるとは、自己を構成する内容が豊富になるということであり、したがって矛盾や対立する多様な内容を抱えるということである。ニーチェ曰く:

「人間は、動物とは反対に、わが身のうちで豊富な対立しあう衝動を育てあげてきた。この総合のおかげで人間は大地の主のなのである」

 人間が万物の長である理由は、最大の総合だからなのだ。つまり最大の価値評価の体系を持つからである。犬の価値体系の複雑さより、人間の価値体系の複雑さの方が、多様さと範囲の広さにおいて、比較にならないほどデカイ! しかし、同時に人間は、矛盾し対立する豊富な価値要素を抱えて、不統合によって崩壊するかもしれない。人間は、この自己破壊の可能性をどのように克服するのか? ニーチェ曰く:

「道徳は、諸衝動のこの多様な世界における局限された階序の表現である。そのため人間は、諸衝動の矛盾で徹底的に没落するということがないのである」

 人間とは、精密な時計のようなものだ。精密機械ほど部品が多い。部品が多いほど、高度な機械なのだ。部品が多いということは、精密だが、部品相互の微妙なズレによって故障の可能性が高いということでもある。レベルの高い人間とは、丈夫な人間ではなく、精巧であるがゆえに壊れやすい人間のことである。天才とは、こういう人間のことである。

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