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死刑制度の問題は、人権派やリベラルな市民団体が争点にするレベルで考えてみても、あまり興味をそそらない。死刑制度を考える面白さは、賛否を論じる点ではなく、それが人間と社会の根本的な何かに触れてしまう危うさにあるのだと思う。この点では、戦争という問題も同様だろう。
通俗的人権派に云わせれば、死刑制度は、「殺すな」という倫理的に無条件に正しい命令に反するから悪だとされているが、この主張は絶対的平和主義同様、ナンセンスである。「いかなる理由であれ、殺すな」は、自分の食生活や(ベジタリアンも例外ではない)、「正当防衛」という普遍的に承認されている権利を振り返れば矛盾は明らかであり、残念ながら生物は、他者の死によって生存を許されているのである。もちろん、「殺すな」という命題は、動物一般には適用されない以上、「人間である以上は殺すな」と解釈できるが、ヘーゲルが云うように、死を賭して生以上の価値を実現するのが人間と動物の区別であるなら、死刑囚は処刑によって人間らしさを、人間の尊厳を獲得できることになる。このように、「人間である以上は殺すな」という論理は、人間の尊厳性の定義次第で根拠を失うことになる。
この難点に気づいた人権派は、国家権力による暴力の独占を悪だとするが、暴力は蔓延するよりも独占された方が明らかに国民にとって好都合であり、とくに法治国家では、暴力は一極集中的に管理された方が国民の利益であることは、人類の知恵なのだ。
暴力それ自体が悪だというならば、「強制力は、それ自体で悪か?」という問いに答えねばならないが、暴力は強制力の究極的行使であり、強制力なしには、社会そのものが成立しない。もし人権派が強制力そのものを否定するならば、それは法を否定することになり、法が成立する根本的条件そのものの否定になる。なぜなら、法を担保するのは強制力だから。
冤罪の可能性による死刑反対は、死刑制度そのものの問題ではなく、そのプロセスの問題であり、冤罪の可能性によって死刑を否定すれば、裁判そのものの否定になる。犯罪抑止力としての死刑の疑問は、カントの云うように、死刑の正当性はその有用性と無関係であるという議論に耐えられない。報復感情否定論も、死刑の根拠が報復感情にあるのではないというカントの議論に持ち堪えないのは、あのデリダでさえ認めているのだ。
死刑が残虐であるという議論も主観的であって、生きる屍として暮らす終身刑と、覚せい剤で究極の極楽を味わいながら死ぬ死刑、仮にどちらを選ぶかと問えば、後者を選ぶ囚人がいないとも限らない。ようするに、通俗的死刑反対論者とは、「死が究極の恐怖であって、死を超えるいかなる価値も、人類は持ち合わせていません」というニヒリズムを告白しているに過ぎないかもしれない。
同じ死刑反対論者でも、カミュのような人物は、その死刑反対論が人間の根本的課題に触れるように提出されるから、一考に値すると思う。次回。
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