Ethical Experiment

倫理と刑罰

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死刑制度A

 

 ノーベル文学賞作家アルベール・カミュの死刑反対論は、神が死んだ後のヨーロッパ社会、つまり世俗主義社会を思想的背景にしている。しかし、死刑に対するカミュの態度は、両義的で曖昧なままだった。カミュは、凡庸な人権派のように非暴力主義者や生命至上主義者ではなかった。むしろ、ある条件さえ整えば、私たちは人を殺すことができるという立場だった。そもそも、カミュを有名にした『異邦人』という小説は、ムルソーという青年の殺人の物語である。またカミュ自身もドイツ占領下のレジスタンスとして活動し、ある条件(戦争)においては、抵抗のための暴力が不可避であることを身をもって実践した経歴がある。

 『異邦人』によれば、主人公ムルソーは自分のモラルに従って殺人を犯す。しかし他方で、裁判官がムルソーに下す死刑判決を無意味として否定する。もちろん、ムルソーは死刑制度に反対だからそうするのではない。神父に対して懺悔を拒否するムルソーは、上位の審級(神)が人間を裁く絶対的正義に対して反抗するのだ。対等な同士が、殺しあうことはありえる。この意味において、暴力が避けられない場合は存在する。しかし、「社会の名において」、「神の名において」、「正義の名において」裁く死刑宣告を、カミュは認めないのだ。

 カミュによれば、いかなる人間も他人を絶対的有罪と宣告する資格はない。人間は、誰を絶対的無罪として裁くことも、絶対的有罪と裁くこともできないのである。人間を絶対的有罪として宣告できるのは、人間を超えた真理・原理だけである。したがって、神の存在以外、死刑を正当化できるものはない。カミュによれば、聖なるもの(神)が死んだヨーロッパ社会においては、死刑制度は悲劇である。なぜなら、死刑は相対的権力(国家)によって執行されるからである。世俗化時代の国家は、絶対的正義の名において、人間に死を宣告することができない。

 カミュは、絶対的死刑反対論者ではない。絶対的正義(神)が死んだヨーロッパ社会においては、死刑を正当化できる上位の審級が消失しており、相対的罪人(国家・社会)が、相対的罪人(犯罪者)を裁くところに、死刑の妥当性が歴史的に失われていると云うのである。数千年(あるいは数万年)続いた死刑制度が否定されるようになったのは、人類史上初めて世俗主義が登場したヨーロッパ社会においてであり、国連を通じたEUの強い働きかけによって、他の諸国も死刑制度を廃止した。ほんのここ、数十年の出来事である。死刑制度廃止は、人類史から見れば、つい最近の異例な現象なのだ。ニーチェは19世紀にすでに、ヨーロッパの死刑制度廃止を予言したが、それは人間を超える上位の審級の崩壊を感じ取ったからである。死刑廃止運動とは、ヨーロッパ的価値観のグローバル化と云える。

 カミュは、第二次世界大戦終了後に対独協力者の助命嘆願書に苦悩の末に署名している。当初、死刑制度反対論者のカミュでさえ、対独協力者の死刑は当然の裁きだった。カミュにとって、「対独協力者の死刑は不可避である」という自分自身の主張を翻しての署名だった。対独レジスタンスの闘志・カミュにとって、それは困難な決断だったのだ。その辺については、内田樹氏の『ためらいの倫理学』という美しい小論を参照していただきたい。その後、カミュは、ある条件において殺人は不可避であるという思想を維持しつつ、しかし同時に殺人(死刑)に対する反対を貫いた。

 カミュの云うように、人間生命以上の審級を想定することなしに死刑制度は正当化できない。今日、死刑制度を維持している諸国は、世俗主義を基調としながらも、ある一点で「聖なるもの」を保持している国だけである。共産党独裁という神を持つ中国、キリスト教国・アメリカ、死者と世間という神を抱く日本、イスラム法を神の啓示として信奉するアラブ諸国・・・。それぞれ、聖なるものの具体的表現は異なっても、死をもってしても償うべき何かがあると信じる文化であることにおいて共通している。死をもってしても償うべき価値があるかどうかが、「神が生きている文化」と「神が死んだ文化」の違いである。

 絶対的正義(神)が維持されている文化では、本来、正義は裁くだけではなく、裁いた対象を同時に赦した文化でもあった。中世ヨーロッパでは、死刑囚が火焙りにされる時、被害者の遺族が、死刑囚の魂の救済を神に祈ったそうだが、昔の日本でも最悪の極悪人でさえ、その魂を鎮魂する塚が建てられた。昔は、多くの文化において、絶対的正義(神)は死刑を宣告すると同時に、その刑死によって死刑囚の魂を浄化し、もう一度共同体に受け容れる和解を与えていた。死刑囚は、その死によって再び社会の一員として受容されていたのだ(中国は別として)。

 死刑制度に対する絶対的賛否の基準は存在しない。「死をもって償うべき価値があるか」についての、その文化・個人の価値判断による。現代の日本は、聖なるものを維持しつつ、しかし世俗化が拮抗している社会である。しかし、現代の日本に欠けているのは、死刑囚は裁かれると同時に「その死によって和解されるべきである」という感受性ではないか? 社会は、裁くと同時に、その裁きによって和解する。死刑囚は、その死によって被害者の命を償う。しかし同時に、死の代償によって、もう1度社会に受容される(伝統的には)。もし、この再受容がなければ、死刑を正当化する「聖なるもの」は悪魔化するのではないだろうか? 

 聖なるもの(神・死者・社会)は、裁くと同時に(死刑)、裁きによって悪人と和解する。この和解によって、裁き(死刑)は逆に正当化される。世俗主義は、中途半端に裁き(終身刑)、しかし中途半端にしか受容しない(隔離)。死刑が昔は公開で行われていたが、見せしめにするためであると同時に、観衆として死刑に参加することによって、社会は死刑囚を再受容していた機能もあった。現在でも一部の国は、死刑は公開か、ないしは被害者の遺族だけには公開されている。日本のように、密室で執行される死刑制度は、その辺の機能を果たしていない。次回は、デリダの死刑廃止論。

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