Ethical Experiment

倫理と刑罰

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死刑制度B

 

 デリダによれば、死刑反対を正当化できる論理とは、赦しの倫理だけだそうだ。しかもそれは、条件付きの赦しではない。犯罪者の改悛と引き換えの赦しではなく、改悛していようが、いまいが、無条件に与えられる赦しだそうだ。改悛した罪人は、犯罪を犯した当時の彼ではない。普通は、改悛した罪人に赦しが与えられる。なぜなら、彼は悔い改めたから。いわばここでは、赦しは、改悛と引き換えに与えられる代価のようなものだ。デリダによれば、それは真の意味の赦しではない。デリダが求める「無償で無条件的な赦しの論理」とは、たとえ罪人が赦しを求めていないくても赦すことである。また罪人が反省せず、自分の犯罪を正当化し、今後も犯罪を繰り返すにもかかわらず与えられる赦しである。赦されるに値する者を赦す限りは、真の赦しを与えていないに等しい。それゆえ、無条件の赦しは、まさにそれが不可能であるような場合において与えられなければならないことになる。デリダ自身、このような「赦しが可能であるかどうか私には分かりません」と率直に述べている。しかし死刑反対論者が、こういうデリダの論理を参照して死刑反対の論拠としようとしている例が、実際にあるのだ。デリダ自身が云うように、この赦しの論理はユダヤ・キリスト教に依拠しているのは明らかだろう(厳密にいえば、キリスト教だが)。

 さて・・。さてである。このデリダの論理。宗教的には、まったくおっしゃる通り。
しかし、宗教的には真だからこそ、死刑反対論としてはダメなのだ。
実は、偉い宗教者、神学者ほど、宗教的な論理で死刑反対を正当化する傾向がある。二十世紀最大の神学者と云われるカール・バルトも、「神は罪人を無条件に赦しておられるから」という理由で、死刑に反対している。私は宗教援護論者だが、この点に関しては、まったく同意できない。宗教と行政を区別できない輩が目に付くのは困ったことである。小泉内閣の時代に、杉浦前法務大臣が、仏教徒として、宗教的信念を理由に死刑執行書にサインしなかった。
だったら、最初から閣僚になるな!
仏陀が煩悩からの解脱を要求したのは、そもそも、こういうお調子者に対してではなかったのか。

 宗教的真理は、宗教的真理である限り、それによって法を作ってはいけない。宗教で行政ができるなら、最初から行政など必要ないのだ。
宗教的真理は、まさにそれが不可能であるような場合にだけ真理である。
したがって、それが社会生活を治める刑法に直接応用されたら、社会生活自体が不可能になってしまうのだ。当たり前である。社会生活には、できるだけ現実的な法が必要なのだから。デリダの云う、「不可能であるような可能」を当てにしてたら、社会生活は成り立ちません!キリストは、「カイザル(ローマ皇帝)のものはカイザルに、神のものは神に納めよ」という名言を残した。まさに真である。 神の論理は、人間の社会生活に直接応用されてはいけない。
イスラム・テロリストにも、言って聞かせたい言葉だ。

 人権派死刑反対論者は、多くが世俗主義者のくせに、自分たちに都合の良いところだけ宗教(デリダのキリスト教的赦しの論理)を利用しようとする。けしからん・・。そういうわけで、通俗的死刑反対論も、カミュのようなヒューマニズム的死刑反対論も、デリダのような宗教的死刑反対論も、小生にはいまいち説得力に欠けるのである。

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