Ethical Experiment

困難な倫理

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お金の魅力とは何か?

 

 さて、お金の魅力とはなんだろう? お金があれば、物質的生活が豊かになるし、欲しいものが買える。購買力や贅沢な暮らしは、お金の魅力の一面ではあるだろう。しかし、物が買えることそのものは、お金の魅力の本質ではないと思う。世の中には、貯金好きなタイプがいて、日常生活は質素そのもの、倹約を旨とし、貯金通帳の数字が増えるのを眺めては満足している人たちがいる。拝金主義の象徴とも云える「守銭奴」とは、お金を使うことよりも、お金を貯めることに魅力を感じる人たちであって、金持ちほどケチであるというのは、多くの場合、真である。

 では、お金の魅力の本質はどこにあるのだろうか? 
答え:お金の魅力とは、可能性である
つまり、お金を持つ魅力とは、可能性を持つ魅力である。可能性を使う魅力よりも、可能性を持ち続ける魅力の方が大きい。したがって、お金を実際に使う魅力よりも、お金を使う可能性を持ち続ける魅力の方が大きいのである。旅行に実際に行く魅力より、旅行に行ける可能性があり、旅行のプランを計画している最中の方が、楽しいのと同様である。

 お金とは可能性である。そして、人間は可能性なしには生きていけない。なぜなら、可能性が皆無の状態、つまり絶望こそが、人間にとって一番辛いから。お金を持っている時、一番嬉しいのは、お金を持っていること自体ではなく、可能性を持っていることなのだ。したがって、現金を一円も持っていなくても、1億円使えるクレジットカードだけ持っていれば、それで満足なのである。ドストエフスキーは、囚人が獄中でさえ、お金に執着することに注目して、お金が囚人にとって自由の可能性を意味することを見抜いた。お金に執着するとは、可能性に執着するということであり、その意味では、当然のことだし、人間にとって不可欠なことなのである。
貧乏の辛さとは、可能性の貧困感である

 生の大きさと豊かさは、可能性の大きさに比例する。人間は、実際に可能性が実現しなくても、可能性があることさえ実感できれば、決して不幸になったりしない。お金に執着しない人とは、お金以外の何かに可能性を見出した人のことであり、可能性自体に執着することには変わりはないのだ。キリストや仏陀やガンジーなどの聖人たちは、清貧に甘んじて生きることができたが、それはお金以外の何かに、自分の可能性を見出したからであって、可能性さえ実感できれば、人間は、お金でも、宗教でも、政治でも、趣味でも、ボランティアでも、戦争でも、異性でも、要するに何でもいいのだ。

 したがって、拝金主義から解脱したければ、お金以外の新たな何かに、可能性の象徴を見出すしかない。それを見出した人は、乞食をしながら生きても、何の不満足も感じないだろう。新興宗教にはまって、教団に家財を寄進して、さらに怪しい壺を売って、その売り上げも教団に奉げ、自分は貧しい暮らしをしながら、嬉々として満足している奇特な人がいるが、その人にとって可能性のシンボルとは、お金ではなく、教祖様なのだから、実は何の不思議でもないのだ。その人にとっては、教祖様の教えが実現しなくても問題ないのである。大事なのは、可能性を持っているという実感であって、教団に奉仕して生涯貧しい生活が続き、世間的には不幸な生活でも不満は感じないだろう。お金の場合と一緒で、可能性とは、使うよりも、持っている方により楽しみがあるのだから。アフリカには、豊かな市場社会に何の魅力も感じず、石器時代から変わらない部族社会で暮らす人たちがいるが、部族とご先祖の霊と暮らすことの中に可能性を感じているからそうしているわけで、都会に引っ越してお金を持っても、部族とご先祖様の関係が断ち切れれば、彼らにとっての可能性が消滅してしまうのである。しかし、現代社会の大部分の人たちにとっては、お金以外に可能性を保証してくれるシンボルが、今のところ見つからないのだ。

 お金に魅力を感じる自分や他人を軽蔑する必要はまったくない。私たちが本当に魅力を感じているのは、人生の可能性であって、それなしには誰も生きる気力が湧いてこないのだから。とはいっても、政治家や金持ちが、お金はあるのに自殺するケースがあるのは、お金が象徴する可能性では解決できない種類の問題が、人生にはあるからだろう。世界には、可能性を象徴するシンボルがいくつもある。え、本当にあるかなぁ?

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