Ethical Experiment

困難な倫理

Welcome to my column


一歩手前で問うのはやめよう

 

 テレビや雑誌では、地球温暖化緩和に取り組む啓蒙的市民の活動を取り上げることが多くなった。個人的には、地球温暖化反対と、禁煙運動に代表される健康ブームや死刑反対運動や平和運動は、世俗主義社会の必然的傾向であると思っている。もちろん、環境問題や長寿は、私たちの生活に直結する課題なので、一瞥に値することは否定しない。しかし、現代社会において特徴的なのは、二酸化炭素排出や禁煙や死刑制度が、狭義の意味での倫理的問題として提出されている点にあるのだ。倫理的問題として提起されるとは、善悪の問題になっているということである。それに対する判断の是非が、善悪の尺度で計られるという意味だ。

 ここで、地球温暖化問題を取り上げたのは、それに反対したいからではない。むしろ、私たちの時代の難しさを象徴しているからである。私たちの時代の難しさとは、「なんのため?」という問いと、その答えが欠けている点にある。

 「二酸化炭素の排出を規制しなければならない」。そりゃそうだ。でも、なぜ? 「人類が滅ぶから」。そりゃそうだ。でも、なぜ人類が滅んではいけないのか? 人類は、何のために存続しなければならないのか? それについての答えが欠けている! 健康についてもいえる。「喫煙は人体に害である」。そりゃそうだ。でも、なぜ禁止するのか? 「健康で長生きするため」。なるほど。しかし、なぜ健康で長生きしなければならないのか? 長生きして、何を達成するべきのか? それについての答えが欠けている! 「平和が重要である」。なるほど。しかし、何のための平和なのか? 平和であること自体が目的になっていて、平和という状態は何を達成するためなのかについては答えがない。

 現代では、地球にせよ、人類にせよ、個人にせよ、『生存』それ自体が最高の価値になっているが、何のために生存するべきなのか、何のために長生きするべきなのか、何のために健康であるべきなのか、何のために平和であるべきなのか、この問いが欠けているし、その答えが欠けている。暗黙のタブーとして、この種の問いは、問うてはいけないのだ。それを問わないことが、温暖化反対運動、健康運動、平和運動が成り立つ前提だから。問うてしまったら、そんな運動に熱中する活動家になるよりも、瞑想する哲学者か宗教者にならざるをえないだろう。昔の活動家たちは、「何のために?」という問いに対する答えを自覚しながら活動していたようだ。社会全体が、ある一定の価値の体系を暗黙に共有していたから。残念ながら、私たちの時代はそういう時代ではない。何でもいいから、前に進むことだけが、至上の価値になってしまった。「何のために?」への答えなしに、進み続けること。他に価値が見当たらないから。

 走り続ける意味を自問してはいけない。必ず足が止まるから。一度止まってしまったら、再び走り出すのは難しい。活動家諸君、一歩手前で問うのは止めよう。「何のために?」を問い詰めてはいけない。「何のために?」は、危険で贅沢な趣味なのだ。時代の子である私たちは、ニーチェにとっての、物分りの悪い生徒である。

 人間意志の根本事実が、すなわちその<空虚の怖れ>が示されている。人間意志は一つの目標を必要とする。そしてそれを欲しないよりは、まだしも無を欲する。諸君には私の言うことがわかるか・・・。私の言うことがわかったか・・・。「ちっともわかりません! 先生!」・・・。では、初めからやり直すことにしよう。(道徳の系譜・岩波文庫)

Copyright © 2007 現代倫理のパフォーマンス研究会 All Right Reserved.