Ethical Experiment

実感する倫理

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同情の宗教

 

 小生は多くの場合、宗教の味方である。とくに宗教の教義が含んでいる深遠な洞察のファンである。しかし、宗教者の実践については、小生は批判的なのだ。とくに賛同できないのが、同情である。外国人不法滞在者が不法のゆえに当局に裁かれる時など、「弱者への連帯」と称して、聖職者が支援活動を展開するケースが多々目に付く。小生の批判は、かれらが弱者に同情する点にではなく、同情があまりにも安易な点に向けられる。同情とは難しい技術であって、これに長けるのは至難の業である。同情の難しさをいくつか列挙してみよう。
 

 まず第一に、同情者が他人の苦悩に同情するとき、その苦悩を正確に解釈していることはまずない。私たちは、他人の苦悩に同情する時、その苦悩に共感していると信じるものだ。しかし、本当にそうだろうか?例えば、私たちが苦悩する時、他人がその苦悩に共感したと信じているのを見ると、自分の苦悩が浅薄に解釈されていると常に感じてしまうのは何故か?他人の同情は、自分の苦悩を浅薄に解釈した上に成り立っているのを感じない人がいるだろうか?同情深い者は、「私」にとって不幸とされているものの本質について、何一つ知るところがない

 なぜそう言えるかというと、同情者は、手っ取り早く助けるのが一番良い助け方だと信じている場合が多いからだ。同情者が、私とあなたに語る慰めと助言を吟味してみると、手っ取り早い慰めや助言がなんと多いことか。このことから、同情者が、私とあなたの苦悩を浅薄に解釈していることがわかるのだ。同情者の示す解決策は、苦悩を取り去ることだけである。つまり同情の宗教の本質は、安楽である。たしかに苦悩する人は安楽を求めるが、安楽だけが解決でないことも直感的に感じている。安易に安楽が与えられれば、苦悩が与える本当の果実も手に入らなくなる場合もあるのだ。

 弱者への連帯と称して、すぐに安楽を提供することが同情だと信じて疑わない人たちは、苦労や苦悩の中には、一片の価値もないと信じているのだろう。不法滞在のイラン人一家の国外退去命令事件でも、多くの活動家が登場したが、彼らが日本に滞在できる方が良いのだろうか、それとも家族がバラバラになった苦労の中に将来子どもが成長する契機が隠されているのだろうか?そんなこと、誰もわからない。神のみぞ知るである。誰もわからないからこそ、同情というのは難しい。「同情するな」と言われても、無理な話である。普通の神経の持ち主なら同情する。それでもやはり、正しく同情するのは、難しいものだ。

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