Ethical Experiment

困難な倫理

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無条件の愛?@

 

 愛というのは、与えるのも受け取るのも簡単ではない。キリスト教の影響もあって、愛という用語も浸透し、その観念も広がっているようだが、一般的に知られているのは、キリスト教のアガペーの観念の通俗版であるようだ。アガペーについては、神学者たちが論じているが、専門的な話は横においておこう。

 アガペーの最も通俗的な解釈は、「無条件の愛」というものである。これがまた、誤解を生みやすい表現である。「無条件」という用語を、どのように解釈するかにもよるが、「愛とは、無条件に与えること」、「愛とは無条件に赦すこと」という通俗的キャッチフレーズに解釈されるならば、アガペーは曲解されている。

 「無条件に与える愛」というと、「何の見返りもなしに、無条件に惜しみなく与える愛」という風に聞こえるが、これが真の愛であるかは微妙である。多くの場合、「何の見返りもなしに、無条件に惜しみなく与える愛」は、受ける側に心理的抵抗を生む。なぜなら、それが暴力的だからである。自分が破産寸前の中小企業の社長だと仮定してみよう。すべての銀行に借金を断られ、親友の下に借金を懇願するため訪れた。必要な金は、決して小さな金額ではない。親友にとっても大きな負担だろう。それでも、生き残るためには、土下座をしてでも借りなければ・・・。

 さて、親友は最初は丁重に断ったが、私が必死に頭を下げるので、ついに降参して金を貸してくれることになった。しかし条件付きだ。「銀行の利子より2%ぐらいは、多い利子で返してくれよ」。ノー・プロブレム!私は歓喜して飛び上がり、こんな親友を持ったことを神に感謝するだろう。

 さて、もう1つのシナリオを考えてみよう。私の必死の訴えを黙って聞いていた親友は、おもむろに言った。「よし、わかった。俺でよければ力になろう。ここに1億ある。返済しなくていい。これはプレゼントだ。拾ったと思って使ってくれ!」。さて、こうなった場合、あなたは歓喜するだろうか?「ありがとう!」という言葉が、何度も口から溢れるだろうか?統計を取ったわけではないが、80%ぐらいの確率で、すぐには「ありがとう」の一言は出てこないだろう(もちろんお金は受け取るが)。

 私たちが心からのありがたみを感じ、感謝の念が自然に湧いてくるのは、多くの場合、条件付きの行為に対してである。つまり予想できる最大限の好意に対してだけである。無条件に惜しみなく与えられた好意に対しては、心の中の何かが抵抗感を感じるのだ。結果的には背に腹は変えられず、その好意を受け取るだろうが。しかし、感謝とはいえない複雑な気持ちと共に・・。日常的にも、私たちが「ありがとう!」を言えるのは、予想できる範囲の好意に対してだけである。予想を超えた好意に対しては、「ありがとうを言わなければならない」という強迫のもとに口にする場合が多い。これは、なぜだろう?たんに自尊心の問題だろうか?

 おそらくそれは、ある種の多大な好意は、それが返済不可能な負債となるという意識に起因するのだろう。愛というのは、常に交換の形式をとる。一方的ではダメなのだ。ある種の多大な好意は、それが返済不可能、つまり今後の継続的交換を不可能にするほどの負債になるか、あるいは一方的な上下関係においてのみなされるイビツな交換にならざるをえない状況を作ってしまう。逆に言えば、他者との交換を断絶するためには、過大な好意を押し付ければいいのだ。一方的に無条件な好意は、今後の交換(交わり)を不可能にする

 よくあることだが、恩人ほど裏切られる。なぜだろう?それは、ある種の多大な恩は、交換継続の息の根を止めるからである。「あれだけ親切にしたから、裏切らないだろう」と考えてはいけない。あれだけ親切にしたから、裏切られるのである。これが、愛を与える側と受ける側の難しい第一点である。

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