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さて、前回は無条件に与える愛が、受けた方に負債の感情を生みだす難しさについて触れてみた。今回は、その逆のパターンを考えてみよう。つまり、負債のある者の負債を帳消しにしてあげる場合である。無条件に与える愛が、受け取る方に内的な抵抗を生むのとは違い、負債を帳消しにする愛は、帳消しにされる方の内的抵抗を生まない。もちろん、その負債が返済困難であるという条件付きだが。これは興味深い現象である。この不思議さが、福音書で愛が「負債の帳消し」という形式の譬えで、しばしば登場する理由なのであろう。福音書に愛が負債との関連で譬えられているには、きっとその裏に何か事情があるに違いない。
おそらく事情はこうだろう。返済困難な負債を抱える人間は、債権者の前に堂々と立てない。つねにコソコソ逃げようとする。あなたが金を貸したが、しかし返せない人間、あるいは返さない人間が生涯で一人ぐらいいるだろうから、観察してみると良く分かると思う。これはたんに金銭的負債だけに限らない。これは、負い目の本質である。負い目の本質とは:自己を閉じざるをえなくなることだ。つまり、自己を閉じるとは、債権者の視線を避ける、自己を隠すということだ。絶対返すべき借金をまだ返してくれていない友人と、バッタリ街で出会った場面を想像してみよう。あなたは全然責め立てる気がなく、久しぶりに会ったので近況でもおしゃべりしたいと思い、気軽に話しかける。対照的に彼はソワソワして、なるべく話を早く打ち切りたい仕草を見せるだろう。表面は笑顔だが、内面はしっかりと閉じられている印象を受けるだろう。なぜか微妙な距離感を感じるだろう。負い目によって閉じられた自己は、本人や債権者の努力によっては、なぜか開けないのだ。負い目の真の怖さとは、自己が閉ざされて、交換が不可能になる点にある。交換とは要するに、心のこもった言葉の交換、気持ちの交換、くったくのない意見の交換、お金の交換(おごったり、おごられたり)、そういうすべてだ。交換不可能になると、人間は石になる。
負債の免除は、宗教界では「ゆるし」という用語で表現される。しかし注意が必要だ。ゆるすとは、悪いことをされても、その是非を問わないことではない。小生の知人が、自宅に何度も泥棒に入られたが、それを警察に届けようとしなかった。「愛のゆえ」だそうだ。つまり、赦すのだそうだ。ところが、それで味を占めた泥棒は、それからさらに何回か盗んでいったそうだ。さて、人を犯罪に奨励する「ゆるし」とは、はたして愛だろうか?
無条件に与える愛が、受けた方に抵抗感を生むのは、負い目の感情と本質的には、同じ源から生まれてくる。つまり、交換の継続を遮断してしまうのだ。とても返しきれない無条件の贈与は、交換を遮断する。負い目を生じさせるからである。すると、ここから愛の本質の一側面が見えてくる。つまり、愛とは、閉じられた自己をもう一度開き、交換を起動させる何かである。負い目を赦すとは、つまり債務者との間に、もう一度交換が起動するような出口を作ることなのだ。もっと主観的にいうならば、自分の中で固まっていた石が解けた実感を感じたとき、そこには愛があるのだ。誰からの愛だか、思い浮かばない場合もあるだろう。周囲に誰もいなく、自分1人だけの場合もあるだろう。でも、それは愛なのだ。福音書の中に「罪を赦された女」が登場するのだが、興味深いことに、彼女の罪を赦した主体が全然登場しないのだ。いったい、誰に赦されたの?福音書は、どうもこの点には興味ないようで、最後まで誰が赦したのか明示されていないのだ。
すると、その逆もまた真だろう。つまり、人間は、誰が債権者かわからないのに、負い目を感じることもあるということだ。ただ、負い目だけがあるのである。自分の中に、石化した何かがある時、それは債権者が不明な負債なのである。それがある種の人間たちと、あるいはある種の仕事と、あるいはある種の物事と、ある種の意見との交換を不可能にしている。そんな石を一個も持っていない人などいないのだろう。ちょっと抽象的過ぎたけど(隠喩も使いすぎたけど)、こういうのも愛の一側面だと思う。
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