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嫌いな相手に先に謝られた時、思わず自分も謝ってしまったことがないだろうか?嫌いな相手といわなくとも、夫婦喧嘩をして、相手が「ごめんね、仕事でイライラして、つい嫌な言葉を口にしちゃったね・・」と正直に謝られると、ついこちらも「いやいや、俺の方こそ・・」と進んで頭を下げてしまう。まぁ、ありきたりのことかもしれないが、ここには何か事情がありそうなのだ。
成功したカウンセリングは、つねに相手が癒されるとき、自分も一緒に癒されているものである。カウンセリングに働く力というのは、一方的ではありえないのだ。つまり、成功したカウンセリングは、カウンセリングされる方、カウンセリングする方という区別が消滅したときにだけ起こるものなのだ。これはカウンセリングに限らず、教えることを仕事にしている人、取調べをする刑事さん、政治家、医者、セールスマン、ともかく人を相手にする仕事をしている人に共通の経験だと思う。生徒が何かを学んだと確信した時は、教えた教師も何かを学んだと感じるし、相手が本当に喜んだときは、喜ばせた側も喜ぶし、相手が自分の過ちを本当に認めたときは、こちらの方も自分の隠された過ちに気づくものである。本当に氷が解けるときは、つねに相手と自分の両方の氷が解けるのだ。まぁ、もちろん、自分の子供を殺されて、犯人に泣いて謝られても、そうそう赦す気にはなれないだろう。そういう極端な場合を別にすれば、こういう双方向性というのは、しばしば体験するものだ。なぜだろう?
まれに、自分の隠された弱さや、過去の過ちを正直かつ誠実に告白される場面に出くわすことがある。そういう時は、なぜか相手に対する軽蔑心が沸いてこないどころか、逆に畏敬の念に駆られることがある。なぜだろう?恐らくそれは、相手が自分の殻の中に隠していた何かを明らかにしたとき、それは実は、自分も自分の殻の中に隠していた同じものなのだということに気づくからだろうか?表面的な個人的弱さの深層には、人間ならば誰でも共有する弱さが隠されているものだ。それを相手が受容できたのを見るとき、それにつられて自分も受容してしまう。人間共通の深層の地盤が見出されて、相手の謝罪や後悔に誘発されて、自分も謝罪、反省してしまうのだろうか?つまり、受け入れられなかった何かを受け入れてしまうのだろうか?
ちょっと、大げさ過ぎるだろうか?まぁ、このサイトには大げさなことしか書いていないから、そうかもしれない。ちょっと、まとまりが悪かったかな・・。
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