
↑おまえらだれや。
平成18年 2月 1日(水) 表紙へ topへ
興亡千古繁華夢、詩眼倦天涯。孔林喬木、呉宮蔓草、楚廟寒鴉。(張可久「山中書事」)
興亡千古 繁華の夢、詩眼 天涯に倦む。孔林の喬木、呉宮の蔓草、楚廟の寒鴉(かんあ)。
張可久、字は小山というて浙江・慶元のひとなり。元の至元年間から天歴ごろのひとだということです(約1280〜約1330)から、要するに、元の時代の「南人」というやつですね。「蒙古」「色目」「漢人」と来て、元の時代には官職などに就く機会もほぼ無かった旧南宋地域の住民のことです。南人の知識分子が、その鬱屈を託して「散曲」という詩形式が使われたのだといわれまして、張可久などはその典型ですね。役所の使い走りのような役をしばらくしていたものの志を得ず、詩と酒に走って専業散曲家になったといわれます。確認されている作品数が七百を越えるという。
興ったり亡んだりの千年だ。むかしの賑わい華やかな時代は、夢幻のごときである。(時空を超えることのできる)詩人のまなこは天の果てに(幻の映像を観て、)疲れ果てました。
聖人・孔子の学園の林の木々が高々と生い茂る姿を。(麗しき西施が王と愛し合っている)呉の宮殿の城壁に、青々とまとわりつく蔓草を。(賢者・屈原が亡国の迫っているのを歎いた)楚の王廟の屋根で、冬の夜中に闇を見つめているカラスを。
かなりのマボロシですね。なんかクスリでもキメとるんかい、と疑わしくなりますが、この曲は「人月円」という曲の節で歌え、ということになっておりまして、「人月円」の歌は四十八字、ちょうどここで転調(「幺篇換頭」とかいうのです)しまして、
数間茅舎、蔵書万巻、投老村家。山中何事、松花醸酒、春水煎茶。
数間の茅舎に蔵書万巻、老を村家に投ず。山中何事ぞ、松花にて酒を醸し、春水にて茶を煎る。
数間(「間」というのは柱と柱の「間」なので、数間というのは、正面から見たときに柱が数本しかない、狭い住宅のこと。「数部屋」の意味ではない)のかやぶきの建物に、一万巻の書を蔵し、わしは年老いて田舎に住んでいる。山中のこの村では大した事件も無く、松の花を浸して酒を醸し、春の水を汲んで茶を煮るぐらいだな。
これはいいですね。キメなくてもこれならキモいいに違いなし。
そろそろ春ですのはず。もうサクラの咲くことまで寒くならないでほしいのですが、ムリか。
人之一心、本是光明、不是死物。所謂存養、非有安排造作、只是不動著他、即此知覚炯然不昧、但無喜怒哀楽之偏、思慮云為之擾爾。当此之時、何嘗不静。不可必待冥然都無知覚、然後謂之静也。(朱晦庵「答孫敬甫」)
ひとの一心はもとこれ光明、これ死物ならず。いわゆる「存養」は、安排造作有るに非ず、ただこれ他(かれ)に動著せず、即ち此の知覚炯然として昧(くら)まず、ただ喜怒哀楽の偏、思慮云為(しりょうんい)の擾無きのみ。このときに当たって、何ぞかつて静ならざらん。必ず冥然としてすべて知覚無きを待ちて、しかる後にこれを静というべからず。
少し長くなってしまいましたが、朱子が孫敬甫という弟子から「(ほんとうの人間性を)存し養う、ということをするならば、それはもう動になっているのではないでしょうか」という質問をもらって、回答した文章です(朱子文集より)。
もともとですね、宋代の儒学には、仏法(禅)や道教(特に内丹道教)から影響を受けて、「存養」と「省察」というココロをよくする方法がありまして、朱子の考えでは、ココロが平穏なとき(静)はその本性のところを「存養」(存在させ養う)し、ココロに動きがあるときにはその動きに本性から外れたところがないか、「省察」(反省し観察)するのである、というのです。でも、それは理念型的なことを言っているのであって、そんなにキレイに分かれるわけはない。少しくモノを考えていけば、そういうことは明らかであると思います。
しかし、孫敬甫はその理念型にこだわって、「存し養う」ということをすれば、もうココロにわずかながらも動きがあるのだから、「動」の状態なのではないでしょうか。「静」の状態で行うべき「存養」というのはどういうふうにすればいいのか、わからないのですう、と悩んで手紙を寄越したのでした。
これに対する朱子の答えは、冒頭引用のとおり、
ニンゲンのこのココロは、もともと光あふれるものである。死んで暗く冷たいものではないぞ。だから、いわゆる「存養」という方法は、特に按排してなにかをする、ということをする必要はなく、ただそれ(ココロ)を動かさずにおけばいいのだ。それでもう、知恵の働きははっきりとしてぼんやりしたところはないはずなのだ(光明だからね)。ただ、喜怒哀楽する偏りや、思ったり慮(おもん)ぱかったりコトバに出して云ったり行動したりする騒がしさが無ければそれでいいのだ。この状況で、どうしてそれが「静」でないなどと言うことがあろうか。必ずまっくらけでまったく知恵の働きが無い状態になって、はじめて「静」というのだ、ということは通らんぞ。
というのです。なかなかよくわかる教えだと思うのです。晦庵先生は、「静座」とかして、一体どんな世界を見てたのだろうか、と思ったりするです。
このような、実際に誰でもが経験できるはずの精神のあり方を伝えようとしたので、晦庵先生は自分たちの学問を「実学」と称したのでした。先生は自然科学や技術にも強い関心を持って取り組んだひと(※)ですが、それはニンゲンの奥深い体験と関わりを持たない限りでは、「実学」ではない。役に立っても「虚学」なわけなのでした。
※天体観測や音楽理論で一家をなしたほか、山中の貝の化石を発見して、これは現在山となっている場所がもともと海中にあった証拠であると言っている(朱子語類)のが有名ですね。彼は地殻変動理論とか地球球体説は知らないというかそこまでは思いつかなかったのですが、大地には過去に破壊的な変動があったのではないかと推論しています。そのほか、いろんな機械にも興味を示していたりする。
今日は人前でしゃべったから疲れたよ、です。いろいろ「省察」してみると恥ずかしいことを言っている、ような気がするので、途中でもう思い出したり反省したりするのは止めました。代わりに、帰りがけにサウナで「存養」してきましたね。キモチよかったので、かなり実学だったのです。・・・ちょっとコトバの使い方間違っているカモ。
平成18年 2月 3日(金) 表紙へ topへ
雙鬢成絲絲似雪、両翁対面面如丹。(楊誠斎「雲龍歌調陸務観」)
雙鬢は絲(いと)を成し絲は雪に似、両翁対面して面丹のごとし。
今日はよっぱらっているです。すごい眠い。
楊誠斎の詩。題名は、「雲龍歌 陸務観に調(たわ)むる」(雲と龍の歌、陸務観をからかってみる)。読んで字のとおり、友人の陸放翁(字:務観)をからかう歌。訳す。
左右の鬢は糸になってしまった。白い絲で雪みたいに白い。ふたりの老人が対面して、顔は興奮して真っ赤なこと「丹」(に)のごとし。
とりあえず眠いので今日はこれまで。・・・・・・・・・・・・・・・・・
と、ここまで書いて一時ごろアップして、玉山が頽(くず)れるがごとく寝た・・・のですが、「玉山頽」は恰幅のよいかっこいい貴族さまについて言った先例でしたので、おいらには当てはまらず、泥の山が崩れた程度のことだったのです。
ところが午前四時ぐらいに起きてしまいまして、もう寝られなさそなので、またアップする。
「○○歌×××」という題名は、「○○歌」という名前の、漢代あたりからの古い調べである「楽府題」に乗せて、「×××」について謳う、という場合が多いのですが、ここではそのパターンをパロって題名をつけているのです。つまり、「雲龍歌」という「歌」がもともとあるわけではなく、これは楊誠斎が戯れに作った題。「雲」と「龍」は筑豊のおっさんの入墨の画題、ではなくて、楊誠斎と陸放翁の名前にちなんだ二人の古人の字から取ってきたもの。「調」はここでは「たわむれる」「からかう」という意味です。
この「雲龍歌」の歌いだしは、
墨池楊子雲、雲間陸士龍。天憎二子巧言語、只遣相別無相逢。
墨池の楊子雲、雲間の陸士龍、天は二子の言語にたくみなるを憎み、ただ相別れて相逢う無からしむ。
まずは「楊子雲」。これは人名で、漢の楊雄のことです。「子雲」が字。「法言」や「太玄経」を書いた哲学者ですが、一方で王莽政権(「新」国)の設立にも協力したので歴史的にはあまり芳しくない評価がなされたりもします(正しくは揚雄、と書くはずなのですが、楊でも通用するらしい)。ここでは作者の楊誠斎が自分の比喩として使っている模様。「墨池」は晋の王羲之が書の修行をしたところ、とされまして、王氏の本拠地である会稽にある、そうです。でも、江西省にも同じ伝説の湖があったそうで、楊誠斎は江西のひとなので、それを指しているのでしょう。
「陸士龍」はこのホムペでも何度も出てきましたが、呉・晋の貴族政治家で文章家として名高い陸氏兄弟のアニキの方の陸雲のこと。士龍が字。これはこの詩の「たわむれる」相手である陸務観、すなわち陸放翁の比喩なり。ただし、「雲間」は江蘇省の地名でホンモノの陸士龍の出身地。放翁の出たところと近いからそのまま使っているようです。
墨池の近くの楊氏出身であるわたくしと、雲間の陸雲にも比せられる陸務観。天は二人のことばづかいのたくみさを憎悪して、どうやらいつも別々に暮らしてなかなか出会うことができないように仕向けているらしい。
ところが、
長安市上忽再値、向来一別三千歳、王母桃花落幾番、北斗柄爛銀河乾。
長安市上 たちまち再び値(あ)う、向来一別 三千歳、王母の桃花は落つること幾番ぞや、北斗の柄は爛れ銀河乾けり。
「長安」は唐の都ですが、ここでは南宋の亡命首都・臨安の比喩として使っとるわけですね。楊誠斎は、ここでひさしぶりで陸放翁と会ったわけです。どれぐらい久しぶりかというと・・・
長安の街中、あれ、とばかり再会した。この間の一別から三千年、西王母の桃の花は何度散り落ちたであろうか、北斗のひしゃくの柄は腐り、銀河も乾いてしまった(ほどの時間が経ったのだ)ね。
崑崙山中に住むという仙女の親玉である西王母の宮庭には、三千年に一度咲く「蟠桃」という木があり、その実を食うと不老長生の効果を持つ。西王母がわざわざそれを漢の宮殿まで持ってきて武帝に食わせてくれた(「武帝内伝」)という伝説もあります。孫悟空も食っちゃったんだよね。武帝と孫悟空、といえるは、まさに、「ヒルズ族クラスのお金持ち」と「イケメンDQN」の現象化と考えれば、オンナである西王母たち仙女が群がって貢ぐのもわかります(本田先生や森永先生の所説を参考のこと)。ああ憎い憎い・・・。
でも、三千年に一回しか花が咲かないのに、この詩では一別以来の「三千年」の間に何度花が散っただろう、と言ってますので、宋代のひとはこんな簡単な計算も出来ないのか、と嗤ってしまいますね。
むかし、キコリのおっさんが山中に入って、二人の仙人が碁を打っているのを見つけ、自分も碁が好きなので横からそれを見ていた。勝負が見えてきたころ、その仙人たちから、「おまえは普通の人間ではないか。そろそろ家に帰らないとまずいぞよ」と言われ、斧を手に帰ろうとしたところ、斧の柄はすでに腐り爛れていた。・・・長い時間が経過していたのである。そのひとは急いで家に帰ったが、もう顔見知りはすべて死に絶え、百年以上も前に山に入って帰らなくなったオトコの伝説だけが残っていた・・・という「爛柯伝説」(捜神記など)を思い出す・・・までも無く、北斗七星の「柄」の部分が腐るぐらいの時間が経ったといっておられます。「銀河が乾く」という言い回しはあまり見たことないのですが、それぐらいの天変地異(この場合「地異」は関係ないか)が起こるほどの時間が経った、というのですな。
でかく出たですが、年譜をきちんと当たってないので正確にはいえないけど、一別以来、いいとこ十年ぐらいしか経ってないと思いますので、まさに「たわむれて」いるのでした。
その間に二人とも年をとってしまったので、冒頭の詩句に戻りまして、
(いつの間にか二人とも)左右の鬢は糸のようになっていた。雪のように真っ白な糸ですよ。ここにふたりの老人が対面して、顔に水銀塗料の丹を塗ったように真っ赤にして、興奮しているわけだ。
という状況になったのです。
この詩はまだ続くけど、さらに訳したところで誰も喜ばないと思われるのでここまでとす。今日飲んでた相手は二年前の同僚なのです。福岡までシゴトで来たので声をかけてくれたので飲んだのです。焼き鳥うまかった。
創即差、失所在。(南史・蕭昴伝)
創(きず)は即ち差(い)え、所在を失う。
怪我がすぐ治って、どこかへ行ってしまった。
と言ってますね。怪我が治ってどこかに行ってしまったのは、何者でしょうか。
ひとりのオンナがいた。年は二十ばかりで、髪はざんばらで黄色い服を着ていた。武窟山の石室中に住んでいて、あまり食うことはなく、ときおりお酒を少し飲み、ガチョウの卵をひとつふたつ食うだけであった。ためにひとびとは「聖姑」(聖なるおねえさま)と呼んだ。こどもを欲しがるひとが彼女に祈るとうまくいくことが多かったので、やってくるひとが山谷に満ちた。
ところが、梁の王族の蕭昴というひとが、この「聖姑」に呼びかけたのに答えてくれなかった。このため、「これは妖かしのものである」としてムチで打つこと二十。
しかし、怪我はすぐ治って、どこかに行ってしまった。
ということでした。
この文章は「廿二史箚記」より引いた。「廿二史箚記」で、南北朝時代の南朝の一国である梁の歴史書である「梁書」と、「梁書」ももとにして南朝側の五国の歴史を通してまとめた「南史」とを比べると、「南史」の方には「瑣言砕事」、すなわち、些細でちょっとうそっぽいこと、が多いということで、その証左として挙げられている増補分の一つなのです。
今日は佐賀県にいるのです。卑弥呼の湯に泊まっているです。明日吉野ヶ里へ行くですよ。些細なことだがここに記す。もう立春だからね。あちこち行くです。いずれ所在もわからなくしてやるです。
吾善為盗。(列子・天瑞篇)
吾、善く盗を為す。
斉の国に住む国氏は大いに富み栄えていた。一方、宋の国に住む向氏は貧しかった。そこで、向氏は国氏を訪ね、豊かになる方法を問うた。これに対する国氏の答えは、
わたしは上手に盗みをしました。
というのであった。
「わたしが盗みをはじめてから、一年にして補(おぎな)い、二年にして足り、三年にして穣(ゆたか)となった。それより以降は、郷里のひとびとにも分け与えることができるようになりましたよ」
向氏はそれを聞いてなるほどと思い、垣根を越え、塀に穴あけて盗みを行うこと三月、ついに司直の探るところとなって、死んだり流されたりは免れたが、盗品のみならず以前から所有していた財産までまるまる没収されてしまった。・・・
ああ、なんという不公平なことなのでしょう。新規参入の向氏は司直にヤラれて、以前から盗をしている国氏の方は見て見ぬフリです。あるいはおエラ方と通じているのでしょうか。みなさんも、「世の中にはお上とひっついて既得権益を貪るやつらがいるのだ、許してはいけない」と思いますよね。有効求人倍率も上がってきましたからね、経済もよくなってきていますので、こんなホームページの変なのを読んでヒマつぶしてるより、はやく「守旧派」を探し出して血祭りに挙げに行きましょう!
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さて、と。
オロカモノどもを煽りましたのでオモシロいです。にやにやします。
列子の方には続きがありますので続きを言うです。
向氏は自分が国氏にだまされたのだと思って、行って怨みごとを言った。国氏は、
「いったいどういうふうに盗みをなさったのですか」
と訊ねたので、向氏はありのままを答えたのであった。
すると国氏はしばし茫然として、やがて言った。
「ああ、あなたは間違っておられますよ。
吾聞、天有時、地有利。吾盗天地之時利。
われ聞く、「天に時あり、地に利あり」と。われは天地の時利を盗むなり。
わたしは「天にはふさわしい時期があり、地から生み出される利益がある」と聞いております。わたしは、その、天地の時と利を盗んでいるのです。
雲雨之滂潤、山澤之産育、以生吾禾、殖吾稼、築吾垣、建吾舎。陸盗禽獣、水盗魚鼈、亡非盗也。
雲雨の滂潤、山沢の産育、もって吾が禾(か)を生じ、吾が稼を殖やし、吾が垣を築き、吾が舎を建つ。陸に禽獣を盗み、水に魚鼈を盗み、盗にあらざるなきなり。
雲が雨を降らせる。そのしたたる潤い、あるいは山や沢からの地の力、これらがわたしの穀物類を芽吹かせ、植えたものを育ててくれる。わたしの家の垣根も大地の生み出したもので築かれ、わたしの家も山林から得たもので建てられているのです。陸上では鳥やケモノを盗ませていただき、水中では魚やすっぽんを盗ませていただく。盗みで得たのでないものなど、なにひとつないのです。
これら、穀物や草木や禽獣や魚やすっぽんは、みな天の所有するところです。それらを盗んだとて罪・わざわいは至りません。しかし、金玉や珍しい宝や、脱穀後の穀物や織物などは、人の集めたものです。天の与えるものではありません。それを盗んで罪を獲たのですから、誰を怨むことがありましょうか」
というありがたいおハナシだったのですが、向氏はそれを聞いても大いに惑い、ふらふらと街の東はずれを過(よ)ぎった。
そこには、東郭先生(「町の東はずれの先生」)というひとが住んでいたので、その門を叩いて、どうかわかるように教えてほしいと問うた。すると先生曰く、
若一身庸非盗乎。盗陰陽之和、以成若生、載若形。況外物而非盗哉。云々
なんじの一身、あに盗にあらざるか。陰陽の和を盗み、もってなんじが生を成し、なんじの形を載す。いわんや外物にして盗にあらざらんや。・・・
おまえの一身でさえ、盗んだものでないと言い切れるのかのう。陰陽の和を盗んで、おまえは生まれ、いま形をなしているのじゃぞ。いわんやそれ以外のものについては、すべてのものがもともと盗んだものなのじゃて・・・。
さらにこの後、盗みには公道によるものと私心によるものがあるとか説教続く。
堀衛門とか村上ファンドとかについて考えてみた。考えると、おそらく、この国氏や東郭先生の考え方はもう古臭くて、ダメだと思う。市場をだますのはいけないのですが、市場をだますのでなければ、なにを盗んでもいいのです。ひとの営々として貯えたものでもいいのです。というアタマにならないといけないのです。さらに東横インとか小島さんとか考えてみた。う〜ん・・・どうも建物は誠実でないといかんらしい。
のはどうでもいいのです。
今日、吉野ヶ里国営公園行ってきた。期待してはいかんと思いつつ、楽しみにしていた一面もあるのです。
広いところですね。とりあえず入れる建物は全部、粘着ニンゲンらしくシラミツブシに入ってみたですよ。そして、だいぶ歩いたから、いろいろ考えたよ。また数年して東京に戻ったら、また「キモおやじ」としてあんな「扱い」になるのか、とか思い出して悲しくなってきたです。まあそれはしようがないことで、別途考えることとしまして、復元型公開遺跡の考証の難しさはわかるし、1990年代はじめの社会情勢を考えると、この形にしないと遺跡保存そのものができなかった、というのも理解するのですが、ここは○○の建物、××の建物と決めて、粘着っぽくとにかく建物を復元することに意義があるかのように復元されまくっているので、途中でイヤになってまいったです。考証の過程をもう少し明らかにして展示しないと、わけわからん感じす。たとえば「兵士の詰め所」とか「兵士の宿舎」とか出てくるが、「兵士」ってなにものだよ。「兵士」は吉野ヶ里のクニの構成員なのか、よそから連れてきた傭兵的な方々か、戦闘用の人格無きものたちなのか。そのあたりを抜きにして「兵士」とか「交易に来たひとたち」とか言って(これらは一例に過ぎぬ。「大人」もひどい。それは魏志倭人伝の用語のはず。ここの展示状況では、ここにホントに当時「大人(たいじん)」と呼ばれた貴族階級が「四人」いた、ことになってしまう。)、イメージだけ残そうとするから、見事に「ドラクエの町」でしたよ。
クビの無い死体ややじりの刺さった死体が見つかったことから、戦争があったことが証明された、とか言っているけど、そういう死体の個体数をちゃんと明示せよ、と申し上げたいです。90年代に読んだ簡単な報告では、墓域から出た2500体のうち、数体だったと記憶するのです。事故とか「祭儀犠牲」とかあるいは「事件」の可能性の方が強いんじゃないの?これぐらいの数で「倭国大乱」にあてはめてしまおうなどというのは、しろうとながら心配してしまいますよ。男女平等の考え方で人形並べなくていいよ。
と文句ばかり言いましたが、一番困ってしまったのは、イントランスで「発掘された銅剣が訪問者を弥生時代にいざなってくれる」という映像コーナーがあったのですが、ここで、銅剣がこんなことを言っていたことなのです。
・・・稲作(稲刈り労働しているアニメ画像)、あらそい(弓引く男、刀を振り回す男、槍(矛)でナニかを突き刺そうとする男のアニメ画像)、階級(王?の前でお辞儀する二人のニンゲンのアニメ画像)、大陸との交易(海の上を行く船のアニメ画像)。現代まで続く姿ができあがったのが弥生時代なのだ。どうだ、君たちも弥生時代に行きたくなったであろう。それじゃ、待っているからな!
といって映像は終わります。銅剣は会場内の展示場にあります(ただし複製)から、そこで待っててくれるわけですが・・・。弥生時代の位置づけとか現代まで続く本質がその四事項か、とかいう問題意識は抜きにしまして、集団労働・戦争・階級差・交易事業、が特徴だとしたら、オリはそんな時代に行きたくないよう。というか、観にきたひと(コドモ?)がそんな時代に「行きたくなるはずだ」という前提のシナリオを書く感性、それをほいほいと通してオーケー出してしまう知性、においらは呆然とするのです、が。
などと思いつつ、その後、
子貢聞而怪之、以告孔子。孔子曰、此非汝所及乎。顧謂顔回紀之。(列子・周穆王篇)
子貢聞いてこれを怪しみ、もって孔子に告ぐ。孔子曰く「これ、汝の及ぶところにあらざるか」と。顧みて顔回に謂いてこれを紀せしむ。
今日は、とうとう「ゲームをするためテレビを買う」ことに決めました。
昼休みに職場の近くの量販店(先週から目をつけてあった)に行きまして、安いのを注文したのです。・・・が、配達してもらえる時間が合いません、というか、三時間区切りなので朝早くに届けてもらおうと思って待っているとお昼になってしまう可能性もあるので、夕方にしてもらうことにしたところ、六時〜九時コースだと予約で一杯なのでずいぶん待たないといけないそうです。「お急ぎでしょうか」といわれたのでハラが立ったので自分で持って帰ることにしました。そうしたら、現品が無いそうですので(展示物は売り物ではないそうなので)、水曜日にまた取りに行くことになりました。
「デジタル要らない。テレビ見ないから(ゲームするだけだから)」と言ったので「変わったお客」にされたみたいで、びびっているけど嘲っているのがわかってつらかったです。・・・職場の近くで買ってしまったので、あんなもの取りに行って、また持って帰ってくるのかと思うとイヤになってまいります。どうしてこんなにお店のひとにも「なめられる」のでしょうか。答えは簡単なのです。本来ひきこもっているレベルのニンゲンがムリして会社に行って、一人前の下の方になろうともがいているからみんな可笑しくてしかたがない、ということでハ。
さてとさてと。
親族攻撃も含めてかなりツラくなってまいりましたので、いつぶちっと切れて更新しなくなるかわかったものでもございませんので、ハナシを続けます。聞きたくもないでしょうけどね。
宋の陽里華子というひと(おそらく陽里は地名。陽里の華さん)、中年にて「忘」を病んだ。
「忘」というのは、この後の文章を読むとわかるのですが、健忘症のようです。
朝たに取りて夕べに忘れ、夕べに与えて朝たに忘れ、道にあっては行くを忘れ、部屋にあっては座るのを忘れるといった有様。過去のことを思い出せないから先のことを考えることもなく、少し先になると今のことなどまったく忘れているのであった。
家族が困ってしまい、占い師、巫女、医師に頼んでみたがみな治せない。
魯の国(孔子の出身地)に儒者がいたので、家族は財産の半分を差し出してこれにすがった。
儒者は言った。
「これは薬石の攻めるところにあらず、祈請の届くところにもあらず。わが方法で治るかどうかわかりませんが、試してみましょう」
まず華子をしてハダカにしてみた。すると衣を求めた。次いで食べ物を食べさせないでおくと食べ物を求めた。それから真っ暗なところに閉じ込めてみると灯りを求めた。
そこで儒者は言った。
「幸いなことに治りそうです。ただし、わたしの治療法はジブンの子供にしか伝えないことになっており、他のひとにお見せできるものではありませんので、みなさんは絶対に覗かないでください」
儒者は華子と二人だけで蔵に籠もること七日、ついに出てくると、華子の積年の疾は一朝にして癒えていた。
華子はすでに正気に戻ると、すなわち大いに怒りて妻を退け、子を罰し、矛をとって儒者を追い出した。
宋のひとたちがそれを押し止めて、どうしたことかと問うと、華子はこう答えた。
「さきにわしが健忘症だったときは、
蕩蕩然不覚天地之有無。今頓識、既往数十年来存亡得失、哀楽好悪、擾擾万緒起矣。吾恐将来之存亡得失、哀楽好悪之乱吾心如此也。須臾之忘、可復得乎。
蕩蕩然として天地の有無を覚らず。今にわかに識り、既往数十年来の存亡得失・哀楽好悪、擾擾として万緒起これり。吾恐る。将来の存亡得失・哀楽好悪の吾が心を乱すこともかくの如からんことを。須臾の忘も、また得べけんや。
とろろんとして天地の有るとか無いとかにも気づかなかったのだった。ところが今突然知識が戻り、この数十年来のある・なし・える・うしなう、かなしみ・たのしみ・スキ・キライ、じゃまっけな一万の心の糸口(感情)が起こり始めた。わたしはこの先もずっと、ある・なし・える・うしなう、かなしみ・たのしみ・スキ・キライがわたしの心を乱すのかと思うと恐ろしくなる。わずかな時間忘れることも、もうできないのだぞ・・・。」
さてさて。このおハナシを、諸国に旅に出ることが多かった(商人説あり)魯の儒者・孔子の高弟・子貢(端木賜)が聞いてきました。そして冒頭に戻る。
子貢はこの話を聞いておかしな話だなあと思い、孔先生にお伝えした。孔先生がおっしゃるには、
このハナシはどうもお前の理解の及ぶことではなさそうじゃな。
そして、振り向いて、(最もジブンの教えを理解していると考えられていた一番弟子の)顔回に、このハナシを記録させたのであった。
というおハナシでした。
おいらは中間の儒者の「治療法」が気になるです。一体どのようなワザをかけたのでしょうね。
でも、まあいいや。というか、「列子」のハナシは、「荘子」によく出てくるのと同じで「寓言」ですからね。歴史的な実話ではないので、あまり気にしないで、忘れないといけません。
なんにしろ、忘れられる、というのはいいやね。ジブンがひとにしたことはすべて忘れられたら、いつも堂々として生きていけるのに・・・、つまりみなさんのようになれるのにね。ぷぷぷ。
我在口外、反較居京華暢適、爾毋須為我憔悴也。(紀暁嵐家書)
我、口外に在り、反って京華に居りしに較べ暢適、爾、我ためを須(もち)て憔悴するなかれ。
わしは今はるか西域におるが、都に居たころに比べて、かえってのんびりして適当にやっとる。お前、わしのせいで、ということを理由にしてやつれたりするではないぞ。
閲微草堂主人・紀暁嵐は、乾隆三十三年(1768)、「漏言」の罪に問われました。彼は乾隆帝のお気に入りで、以前、起居注という秘書官みたいな官職についていたりもした。かなり情報の集まる地位にいたわけです。そのような中で、紀暁嵐の親戚が公金着服の罪に問われました。家宅捜査などが行われたのですが、その捜査情報が相手に流れていたらしく、その情報を流したのを咎められた模様。
結果として、遥か西域のウルムチ(烏魯木斉)にすっ飛ばされることになりました。
さようなら。
秋に北京を出発し、困難な砂漠の旅を経て、冬にウルムチに着きます。もちろん単身赴任。そのウルムチからの「寄内子」(内子に寄す)、すなわちヨメに送った手紙ですね。
「途中は砂漠があって、馬が嫌がるので駱駝に乗り換えた。ここは満目黄色い砂ばかりで、地面なんか見えないのだ」と言っておられます。「こんなところでは水を手に入れるのがタイヘンなんだ」と言っておられます。「宛然として別世界なり」との感想を漏らしておられます。
やがて天生屯という小さなとりでに着きました、とのことです。
守備兵がお茶を入れてくれた。そのときいうには、
「このあたりは飲み水がきわめて得がたいのです。冬に積もった雪や夏の雨水を貯めて使っております」
そこでわしは言ってやったよ。
「これこれ、この屯は形は土山(風水術の考えでいう土の気を多く持った形の山のこと)に思われるぞ。そのような山地には必ず泉があるものじゃ。どうして井戸を掘って水を取らないのか」
すると兵士は答えた。
「かつて岳将軍という方が軍事行動にここまで来たとき、やはり同様のことをおっしゃったと聞きます。「この山があるのだ、必ずその下には水がある、というべきである」と言って、数十人の兵士に命じてこの砦の北側の隅っこを掘らせたのです。工具を持って掘らせること数十丈まで行ったとき、突然周囲の沙や土が崩れはじめ、工具を手にした兵士たちはあっという間にその地すべりに飲み込まれてしまい、生き残ったのはわずかに六七人であったのでした。彼らが穴の口のところで大声で中に呼びかけ、耳を澄ましてみても、
只聞風声如獅吼而已。(ただ風声の獅の吼ゆるがごときを聞くのみ。)
ただただ、風の音が、獅子の吼える声のように聞こえるばかりであったと申します。
それ以来、誰もこの地を掘って泉を求めるものはいないのでございます。われらは半日ばかり水を探してまいりまして、やっと入手した水で、今、お茶をお出ししているのでございます」
わしはそれを聞いて、この先水がないのかと思ってイヤになったものだよ。
そうしてウルムチに着いたら、ここは肥沃な土地で町も大きい。(訳者注:いわゆるオアシスなのです。)
あの天生屯に比べると、
直有天堂地穴之差。(ただに天堂地穴の差あり。)
まったく天国と地獄の違いだな。
それから、「裏庭の花の種はちゃんと植えておけ、いずれ帰って一緒に見よう」とか言いまして、最後に冒頭のような言葉で結びました。
我「口外」に在り、という「口外」がわかりづらい言葉ですが、これは、先生が獄中(未決)にあったときのこと、
ある看守が文字占いができるというので、占ってもらった。そのひとは、占ってもらおうとするひとに文字を書かせて、それを分析して将来を占う、という析字法という方法をとるひとで、何か字を書いてください、という。わたし(紀暁嵐)が彼の名前を訊ねてみると
「本官でありますか。本官は「董」と申します」
と言ったので、「董」と書いてみた。
すると、そのひとは
「ああ、先生、命には別状ありませんね。遠流です。これは「千里」「万里」と解されます」
と言った。
次いで「名」と書いた。
そのひとはまたその字を見て、
「ああ、先生、これは西域に行くのですね。「名」は「口」と「夕」です。これは「口外」で、中原の外になります。そして、日が「夕」になると西に傾きますので「西域」とわかります」
と解いた。
後にそのとおりになったのでタイヘン不思議なことだと思った。
と、先生ご自身の「閲微草堂筆記・如是我聞」に書いておりますので、そういう意味のようです。
ということで、大先生のおくさまに対する細やかな心遣いのお手紙でした。皮肉抜きにそういう文章ですね。奥様も文字を読まれ、諧謔、あるいはペーソスを解することもできる方だったのですね。よかったね。
ちなみにこのウルムチ行きのとき、紀暁嵐は数えで四十五なり。今のおいらと同い年。はあ。手紙書く相手いてよかったね。・・・と文句言いかけたが、口をつぐむなり。嫉みは心の中にてどろんどろんと煮込むべく、口外すべからざることなればなり。
今日はまだテレビ来ないのですが、もうガマンできないのでゲームのソフトだけ買ってきちゃったよ。日記だから書いておくのです。コドモみたいに楽しみなのです。量販店のやつらがいろいろとおいらをなめくさった対応とっても、おいらはくじけないのです。おいらを見守っている天使とか守○霊さまとかは、おいらが「はやくゲームしたいでちゅー」とか言っているのを見てキモい、あるいは情けない、と思っているだろうなあ・・・。わかってはいるのですが、他に何か楽しいことがあるのですか。野球もまだ始まらないしね。ぷぷぷー。
君子不願乎外、是以不怨天。尽其在我、是以不尤人。(汪玉山「玉山文集」)
君子は外を願わず、ここを以て天を怨みず。その我にあるを尽くす、ここを以て人を尤(とが)めず。
論語に「天を怨みず、人を尤めず」という有名な言葉があるんです。それを解説したのです。
立派なひとはな、自分以外の力で何とかしようとは思わん。だから、「(自分ではどうにもできない運命を主宰する)天を怨まない」。一方で、自分の持っているすべてを尽くして何とかしようとする。だから、「(自分を批判する)他人のことをとやかく言わない」。
ということです。
汪玉山先生は、名前は応辰、字は聖錫という。北宋の終わりごろ江西の信州・玉山の地に生まれたとです。農家の子であったが、玉山尉(警察署長)の喩湍石というひとが一見してこれを「奇」とし、自らのムスメをヨメにさせて書物を読ませた。この後、喩湍石が江西守備司令の趙豊州の幕僚として招かれるのに同行し、趙将軍もまたこれを「奇」とした。このころ、湖南の胡文定、浙江の呂居仁ら名高い知識人たちと面識を持ったが、このひとたちもみなこれを「奇」とした。
「奇」は「奇人変人」というような意味ではなくて、「すごいなあ」「ほかにこんなやつおらんぞ」というような意味です。「偶」は同等の相手(配偶)があるレベルの状態ですが、「奇」は同等の相手のいない状態。「ずば抜けている」というコトバの感覚か。選挙予測でよくいう「独自の戦い」ではないです。
年十八にして科挙試験を受け、進士となった。最終段階の殿試のとき、時の皇帝・高宗が彼の答案を見て、「これはおそらく年配の見識すぐれ人格の練れた老儒者の答案であろう」と言って首席に選んだところ、合格発表のときにまだ二十歳前の少年であったのを知って、将来が楽しみだと大いに喜んだという風説あるです。いわゆる「状元」(科挙の首席)さまなのです。
その後官界で活躍するのですが、和議派で国賊やろうの秦檜に嫌われて南方に流れ落ちること十七年、やがて中央に復帰しますが、正論が多い、からか、宰相を期待されながら高宗、孝宗の二代の皇帝に疎まれて、端明殿学士・平江府知事に終わる。
高宗皇帝が養子の孝宗に譲位して上皇となったあと、引退後の宮殿(徳寿宮)を整備したとき、水銀を使った飾りを作った。上皇は、訪問してきた新皇帝を案内しながら、「知ってのとおり最近は水銀が乏しいじゃろう。ここのは、汪尚書の家から買いつけて揃えたのじゃ」と言ったそうなのです。
皇帝は宮殿に帰ってきて、
「汪応辰は、朕に対して、「国家が民と利益を争ってはなりません」とあれほど諫言しておきながら、ジブンは水銀を販売していたのか」
と怒りをあらわになさった。
このため、引退を求めたのだといわれるです。(以上、宋元学案・玉山学案より適当に引用せり)
冒頭の文は徐漢英というひとに送った手紙の中にある言葉なのです。続きがあるので紹介しておくです。
禍福得喪、在天而不在人、我何怨。是非毀誉、在人而不在我、又何尤。惟行法以俟命、推誠以待物。
禍福得喪は天にありて人にあらず、我、何をか怨みん。是非毀誉は人にありて我にあらず、また何か尤めん。法を行いてもって命を俟ち、誠を推してもって物を待つのみ。
災禍と幸福、得ると失う、これは天の定める運命であって、ニンゲンの方ではどうにもならん。どうして怨むことがあろうか。正しいとか間違っとるとか、そしったり誉めたりとか、は他人が決めることであって、自分でどうこうすることではない。どうして他人をとやかく言うことがあろうか。
ただ、法則どおりに行い、あとは天命を待つ。誠意をもって進め、あとは物事をがどうなるかを待つ。それでよいではないか。
おいらもこういうキレイな言葉も持ってこれるのだ。
ただ、このコトバは、「他人の批判は聞かない」と言っているようにも聞こえるので、人格の完成していない方は、まねしてはいけませんね。
幾回月送孤帆去、未見雲随一杖還。(三国遺事・帰竺諸師)
幾回か月は孤帆を送り去り、いまだ見ず雲の一杖に随い還るを。
本日は夕刻博多を発って東京に来たとです。明日は前の職場に行って、それからあちこち挨拶に行く予定。週末、他人さまのケッコン披露を見て帰るです。なかなか忙しい感じです。どうでもいいのですが、携帯の充電器忘れてきたので携帯はしばらくつながりません。関係者で見ているひといたら注意喚起しておくです。関係者で思い出しましたが、スパイ見に来ている可能性もあるので、おとなしくしておくとです。
さて、のぞみ号はすばらしいのですが、どうしても日が暮れてしまうと窓の外見てられないので退屈でしようがないですね。日が暮れたので、ゆっくり読書でもしようと思ったのですが、あっという間に爆睡して、それからうとうとして、それから「うだあ」とかしているうちに東京まで着きましたが、それでも退屈でした。
ということで、本日は久しぶりで東京に出てきたわけですだで、帰還ネタにしてみたとです。「三国遺事」は、朝鮮の三国時代(高句麗・新羅・百済の三国ですだ)の各国の歴史とか人物伝とかヘンな事件とかを書いた本で、少し早く成立したとされる「三国史記」に比べて伝奇的性格が強く、資料的価値は劣る、といわれるです。分量的にもずっと少ないし、話はオモシロいので、お勧めです。引用した章はまともなハナシなので、そういう意味ではあまりオモシロくはないのですが、「天竺まで行った師たち」というおはなしです。
広函・求法高僧伝(三国遺事の編者が参考にしたチュウゴク唐代の高僧伝)に云う、釈(僧籍にあるひとを言う称号)・阿離那跋摩は新羅のひとなり。初め教えを正さんことを希み、つとに中華に入った。・・・貞観年中(唐の太宗皇帝のころ。すなわち玄奘三蔵と同時代でつ)、長安を離れて五天竺に至り、ナーランダ寺院に住んだ。律の論を多く読み、貝莢(バイキョウ。バイタラという木の葉。ヒンドスタンではこの葉に経典を書写したのでつ)に書写したが、痛いかな、帰ってこようという思いを遂げることができず、たちまち寺中で無常となった(亡くなったのでつ)。年齢七十余。
彼に継いで、恵業、玄泰、求本、玄恪、恵輪、玄遊、およびあと二名の名のわからなくなった法師が、身を忘れて法に順がい、天竺に向かった。
あるいは中途で若死にし、あるいは天竺に到りつくことができたが、ついに誰も「雞貴」(だいたい朝鮮半島のことでつ)と唐室に帰ってくることがなかった。ただ、玄泰和尚だけが唐まで帰ってきたことがわかっているが、そのあとどこで身を終えたかわからない。・・・
というおハナシの後に、「讃に曰く」として、称賛する内容の詩がついています。冒頭の引用文は、この讃の三・四句です。
天竺天遥万畳山、可憐遊士力登攀。幾回月送孤帆去、未見雲随一杖還。
天竺 天の遥か万畳の山 憐れむべし遊士 登攀に力(つと)む。幾回か月は孤帆の去るを送るも、いまだ見ず雲の一杖の還るに随うを。
天竺は空のかなた、一万も重なる山々を越えて行かねばならん。
なんとたいへんなことであろう、しかし旅の和尚たちはすごいがんばって攀じ登って行ったのだ。
何度も月は、大海を航海する孤独な船の帆が港を出て行く(ように坊主がひとり旅立つ)のを見下ろしながら天空を回ったわけだが、
(それらの坊主どもは行方不明になりまして)まだ流れる雲(のような旅人たち)が一本の杖とともに帰ってくるのを見たことはない。
西遊記などの影響もあるでしょうから「天竺」がインドだというのは、みなさん知っている(といっても、チュウゴクの場合と同じで、歴史上出てくるテンジクが現代のインドと同じモノではないので注意喚起しておくでつ)でしょうけど、「五天竺」とはなんだ、とか興味が湧いてまいったと思うのです。が、無責任にも今日はここまでとす。
というので、おいらはとりあえず用事あるから帰ってきたけど、最終的には帰ってくるのでしょうか。それとも天の遥かなる九州方面で無常まで行くのか。疑問を残したまま終わるとです。なんにしろ携帯使えないのは痛いので何とかせねば、でつ。
古往今来時已晩、朝耕夜読楽無窮。(李退渓「移草屋于渓西名曰寒棲庵」)
古えは往き今は来たり、時すでに晩(おそ)く、朝(あし)たに耕し夜読み、楽しみは窮まりなし。
朝鮮の大儒・李退渓は倹素な生活を愛した方であった。日用には陶器をもってし、坐するには蒲席(がまのむしろ)をもってし、布の衣に帯を締めて、葛の草履に竹の杖といういでたちで満足そうであられた。
先生はあるとき(五十歳のときと伝う)、それまでの庵がキタナくなりすぎたとして渓谷を渡ったところに庵を建て直した。この記念に「草屋を渓西に移し、名づけて寒棲庵という」という詩を作りました。
茅茨移構澗岩中、正値岩花発乱紅。
茅茨構を澗岩の中に移し、正に岩花の乱紅を発するに値う。
カヤ・イバラの貧しい小屋を水際の岩の間に移し構えたところ、ちょうど時節は岩のあたりに咲く花の、紅を散らしたかのような時節に当たった。
そして、冒頭の二句に続く。
過去は過ぎていき現在が今目前にある。いずれにせよもう青春のときは過ぎゆいたが、あしたには耕作し、夕べには読書する今の生活の楽しきこときわまりがない。
おお。
さて、この渓上の新宅はわずかに十余架(柱が十余本分の広さの家、ということのようですが、今日的に広いのか狭いのかようわからん。とりあえず当時の李退渓の身分的には狭い、といわれる広さだったのでしょう。)、こごえるように寒く、暑いときには雨が漏り、なかなか他人の耐えられるようなツクリではなかった。しかし先生は、ゆとりをもって暮らしていた。永川郡守の許時さまが訪問して、
「先生、狭くキタナいことかくのごとければ、どうして耐えることができましょう。(建て直されませんか)」
と言ったところ、先生はおもむろに曰く、
習之已久、不覚也。
これを習うことすでに久しく、覚らざるなり。
こういう状況にあることがもう長くなったので、これが狭くキタナイとは思いもしませんでした。
と、われわれキタナいボウズの仲間みたいなことを言っておられます(「退渓言行録」による)。本当にわたしどもから見ますとこんなのが普通だろう、という服装や家の状態が、立派な方々から見ると「キタナい」とか「ちゃんとしろ」とかいう状態だったりすることは多いですので、そんな感覚ではないのでしょうか・・・ね。
ところで、この建物が有名な陶山書院です。
韓国の紙幣には李退渓の肖像とこの陶山書院が描かれている、ということでちらりと見たことがありますが、なかなか立派な建物なので、言われるほどみすぼらしいものではない(わたしども的には)、という感じです。やはり両班さまはいいところに住んでいたの感あり。
おいらもむかしの純粋なころは一度行って拝んでみたいと思ってたのですが、今は韓国には行こうという気にまったくなれないですね。ほんとに魅力のないクニとなってしまいました。ビザ免除で向こうからどんどん来てくださるみたいだし。福岡からは韓国よりずっと遠いらしい東京の方がまだしも魅力あるというか。
月到天心処、風来水面時、一般清意味、料得少人知。(邵康節・清夜吟)
月 天心に到るところ、風 水面に来たるの時、一般の清意味、料り得たり、少人知らんと。
建国記念の日なのです。
が、今日は昼間神保町で本見て、夜は巣鴨のスーパー銭湯でとろとろしていました。
銭湯の露天で空を見ると、ほぼ中天にもうちょっとで満月の月あり。月は長く見るべからざるものと聞く。積もればひとの老いともなると。というか、真上なのでクビが疲れるのであまり長いことは見ていませんでした。
安楽先生・邵雍(康節は謚名)の「伊川撃壌集」から、月が天頂にあることを歌いまして、宋学をまなぶひとにはあまりに名高い詩を挙げておくであります。
月が天の真ん中にくる、その時空。
風が水面を動かす、その一瞬。
どちらにも共通する清らかな感じ。
どうも知るひとは少ないと思う。
思い知るといいですだ。
少し説明してほしいというひとのために、また李退渓先生を連れてきて、解説してもらうです。この詩について弟子に教えている以下のような文があります。
自然与意会、天人合一、興趣超妙、潔浄精微、従容洒落底気象、言所難状、楽亦無涯。(答李宏仲)
自然に意と会し、天人合一、興趣超妙にして潔浄精微、従容として洒落底の気象、状しがたき所を言い、楽もまた涯て無し。
自然に心が会得した境遇で、天と人とは合して一となり、興趣は理解を超えた妙なるもの、清らかで明確で微かで、従容とこだわりなくさっぱりした精神状況だ。とても説明しがたいところを言っているのだが、その境遇の楽しみもきわまりないであろう。
うわー、誰か解説してくりー。
使天而雨珠、寒者不得以為襦。使天而雨玉、飢者不得以為粟。(蘇東坡「喜雨亭記」)
天をして珠を雨ふらせしめば、寒者もって襦を為すを得ず。天をして玉を雨ふらせしめば、飢者もって粟を為すを得ず。
蘇東坡先生がまだ若いころでございますね。嘉祐七年(1062)ということでございますから、進士となってまだ五年、二十六・七歳ぐらいのことでございますよ。鳳翔府判官という職にあり、農に従事する人民どもの欲する雨、が、降るのを喜ぶ、という意味で、自分の家を「喜雨亭」と名づけたのでございます。そのいわれをムニムニと綴ったのが「喜雨亭の記」。ムニムニと綴って、最後に
既にもって亭に(喜雨と)名づく。また従いてこれを歌いて曰く、
といって冒頭の歌を歌いだしました。
天に、真珠の雨を降らしてもらっても、(麻や綿は実らないから)凍えている者が肌着を作ることもできないぞ。
天に、宝玉の雨を降らしてもらっても、飢えている者が粟を育てることもできないぞ。
けれど、天はふつうの雨を降らしてくれる。
一雨三日、維(※)誰之力。
一雨三日、これ誰の力ぞや。
(※「維」と書いたけど、ここに入っていた字は「醫」の「酉」を「糸」に替えた字。「イ」と読み、意味もよくわからないけど、ここでは語調と整えるぐらいしか意味がないと思われまする。)
一回降り始めると三日ぐらいは雨が降っている。この自然の恵みは、一体誰のおかげなのであろうか。
民曰太守、太守不有。帰之天子。天子曰不然、帰之造物。造物不自以為功、帰之太空。太空冥冥、不可得而名。吾以名吾亭。
民曰く、太守。太守に有らず。これを天子に帰す。天子曰く、しからず、これを造物に帰す。造物自らもって功となさず、これを太空に帰す。太空冥冥、得て名付くべからず。吾はもって吾が亭に名づく。
人民どもは言いおった。「太守さまの力でございまする」
いや、太守ではないだろう。これは天子のおかげではないか。
天子はおっしゃるだろう、「そうではない。これは造物者のおかげじゃ」と。
造物者も自らの功績とすることはなく、これを「大いなる空虚」のおかげだという。
「大いなる空虚」は暗がりの暗い影、誰も名前を付け(て、その存在を記述す)ることはできない。
わたしはわたしのあずまやに、名前をつけた(だけでよしとしよう)。
う〜ん、・・・大先生の文章だから、漢文を学んでいるモノである以上、「深い思索に裏付けられているであります」とか、「ヒューマニズムにあふれている」とか、「不条理な自然と社会を直視しながらも、希望を忘れないのですばらしいのです」とか称賛しないといけないのですが、正直なところ、「荘子」とかなんだかを気取っていて、派手すぎて鼻につく感じの文章です、と漢文を学んでいるモノとはいえハズレているのでおいらはそう感じるです。もしこれをオトナが書いたのなら軽薄な感さえありますが、若いころのだからよしとするか。・・・ということで、後世の一人民たるおいらはそれで済みましたが、やはり当時のひとたちからすると、少し眉をひそめたくなるというか、こう軽々と「天子」と使っていたのでは、いずれ父系、じゃないや不敬罪でヤラれてもしかたがない(数年後、烏台詩案という事件起こるです)感じは受けるです。という感じなのですが、おいらは、さきほど東京から帰ってきまちた。遅く着きまちたので、今日はここまでといたちまちゅ〜う。
ということで、これをコドモが書いたのならそれでいいでしょうけど、オトナ、というかオヤジのしかもズングリムックリが書いているのですからキモいでしょう。ぷぷ、思い知るといいのでちゅ〜。
昼間、披露宴でお酒飲んだので、そのあと地下鉄の駅とか地下鉄の中で、ところかまわず眠ったので、新幹線の中で眠れなかった、というか、ちょっと風邪ひいたカモ。
臣聞、民者国之命而吏之仇也。吏者君之喜而国之憂也。(楊誠斎「民政論」)
臣聞く、民なるものは国の命にして吏の仇なり。吏なるものは君の喜びにして国の憂いなり、と。
わたくしは聞き及んでおります。人民というものは国の本体であるとともに、「吏」にとっては仇のようなものである。「吏」というものは君主を喜ばせるものであるとともに、国にとっては憂い(を呼ぶもの)である、と。
読んでそのとおりの文章ですね。特に何かコメントを付け加える必要もありません。
ただし、楊誠斎は南宋の時代のひとですから、ここで言っているのは南宋の時代のチュウゴクのことなのでして、現代のニホンには何の関係もないよ。楊誠斎はチュウゴクの古来からの思想の枠組みの中でモノを言っていますので、「民」を善であり弱である、というパースペクティブで文章を書いていますけど、「民」の一言で括られているひとびとには、実際のところは、かなりの大地主や都市商人層、あるいは自作農、職人、小作農、そして都市浮遊層や雑民というしかない階層や、農村の雇用労働者や放浪者、山賊・水賊など、いろんなひとたちがいます。弱いモノ、とか、善なるモノ、とか、であるというのは「幻想」です。
また、「吏」は、「役人だ、やはり「官」はいつでも悪いのだ」と解釈しては大間違いで、「吏」というのは、地方官庁の周辺にあって、各種実務を行っていた世襲階層(「吏戸」といわれ、差別された)の私人のことで、地域で勢力のある階層と引っ付いて不正を働いたり、「ワイロ」というより「手数料」の認識で、金品その他を受け取って、請託者に有利な法の解釈や裁判などを行った社会階層のことです。
彼らは、被治者である人民からいろんな名目で搾り取るだけ搾り取る。なので、まるで人民を仇にしているようなものである。そして、それは、人民を疲弊させ、あるいは人民に、国家の支配の正統性を疑うように仕向けさせたりして、国家を亡ぼす元となっているのです。しかし、彼らが税金を不正・不合理な方法で集めてきてくれるので、君主はその財産を殖やすことができる。だから君主にとっては「喜び」なのである。
楊誠斎が批判しているのはそういう、その時代の「吏」のことでして、決して、現代のニホンにおいて、よく似た文字で表されるニンゲン集団のことではありません。このへんを間違えて、チュウゴクの「古典」のお言葉を、まったく違う社会システムに当てはめているひとを見ると、どうしてもにやにやしてしまいます。
などと言っても、実のところ、今日は東京からのお客さんがあったので飲み会せり。かなり眠いまま風呂に入ったのですが、風呂出てきたら、今度はとろんとしたまま目が冴えた。そこで今までゲームしてしまっていたのです。マズいのです。なんという生産性が低いニンゲンなのでしょうか。どうしてこんなニンゲンが他者をにやにやして見ることができるのでしょうか。
梅、天下尤物、無問智賢、愚不肖、莫敢有異議。学圃之士、必先種梅、且不厭多、他花有無多少、皆不繋重軽。(范石湖「梅譜序」)
梅は天下の尤物、智賢・愚不肖を問う無く、敢えて異議有るなし。学圃の士、必ずまず梅を種え、かつ多きを厭わず、他花の有無多少も皆重軽に繋(かか)らず。
今日はだいぶ暖かい日になったですので、今年は梅の開花が遅れているそうですが、そろそろ咲き始めるのでしょう。ということでウメネタをするのでありがたく聞くべし。
南宋の石湖・范成大(字:致能)は呉郡(浙江)のひと、宦游の後、晩年に郷里に帰って梅と菊を植えて自適したとです。陸放翁、楊誠斎、朱晦庵、辛稼軒などはみんなともだちでした。今日扱う「梅譜」という文は、郷里の自分の土地にたくさん梅を植えたので、十二種類の梅について一覧(「譜」)を作ったもの。その自序を引用しました。
ウメは天下のすぐれものである。智者、賢者、オロカ者、ゴク潰し、どんなやつもこのことにあえて異議を唱えるものは無いであろう。耕作を学ぼうとするひとは、必ずまずウメを植えるもので、しかも多いからといって多すぎてイヤになることはないし、他の花があるか無いかあるとしてどれぐらいあるか、にもウメを重視することに関係がないのである。
ウメスケは、このようにすばらしいものなのです。「智賢愚不肖あえて異議あるなし」、という決め付けが小気味いいですね。
そこで、范先生は、自分の住処の石湖の玉雪坡(「坡」は堤)に既にウメ数百本を有していたが、最近(比年)、また家の南の王氏から七十の柱のある家を買い取って、これをことごとく除き去り、耕地にして「范村」と名づけた。
以其地三分之一与梅。
(その地の三分の一をもって梅に与う。)
その地の三分の一をウメのために使った。
呉下栽梅特盛、其品不一、今始尽得之。随所得為之譜、以遺好事者。
(呉下は梅を栽うること特に盛んにして、その品一ならず、今はじめてことごとくこれを得たり。得る所に随いてこれが譜を為し、もって好事者に遺す。)
このあたり呉の地方は、ウメを栽培するのが特に盛んな地域であり、品種も一つではない。しかし、今回(ウメ畑を広げたことで)ついにやっと各種のウメを入手することができた。入手した順番に従って、その一覧表を作り、物事を好むスキモノの方のために記録を遺そうと思う。
と言って、ウメについての記述を始めるのです。
今日はまず一つめのウメの記述についてだけ翻訳してやるです。少しは誉めてみるべし。ちなみにこんなのもアップす。東京でひどい目にあったのか・・・?
え?ちょこりえと?なにそれ?オリンピックの種目?おいら、女子フィギュアの国内選考以来、新聞も読まないことにしたからそんなの知らないよ。
古之能為文章者、真能陶冶万物、雖取古人之陳言入於翰墨、如霊丹一粒、点鉄成金也。(黄山谷「答洪駒父書」)
いにしえのよく文章を為す者は、真によく万物を陶冶し、古人の陳言を取りて翰墨に入るるといえども、霊丹一粒、鉄を点じて金と成すがごときなり。
蘇東坡先生の弟子兼友人の山谷道人・黄庭堅の文学論として、つとに名高い一節である。洪駒父というひと(どういうひとかよくわからん)に答える書において、
老杜作詩、韓退之作文、無一字無来処。
老杜の詩を作り、韓退之の文を作る、一字も來処無きこと無し。
詩聖・杜甫(盛唐の杜甫を「老杜」といい、中唐の杜牧を「少杜」というです)が詩を作るとき、文豪・韓愈が文を作るとき、いずれも一字として典故の無い字は無いのである。
と断言しているのである。
「いやいや、彼らの創造に係る文章もあるのでは・・・」
と疑問を持たれる方もいると思うが、これに対して山谷道人の答えはかくのごときなのである。
蓋後人読書少、故言韓杜自作此語耳。
けだし後人は読書少なく、ゆえに韓・杜この語を自作すと言うのみ。
だいたいにおいて後世のニンゲンは、偉大な先人たちに比べて書をあまり読んでいない。このため、「韓愈や杜甫がこの語を自分で作ったのだ」と決め付けてしまっているだけなのだ。
なるほど。「典故がわからんのは勉強しとらんからや、あほたれ」と言うのである。
勉強になりますね。
そして、冒頭の言葉になります。
いにしえの名文家というのは、ほんとうに世界のあらゆる物を、陶冶(陶器をこねたり金属器を型に嵌めたりして、自由に作り変えることが)できるのである。自分よりさらに昔のひとびとの陳べたコトバを墨汁の中に入れ込む(文章にしてしまう)。それはまるで、(古人のコトバという)不思議な丸薬を一つぶ入れると、鉄が変化して黄金となる(、という伝説の道者の煉丹術のごとき)手法(で、すばらしい文章を作り上げてしまうの)である。
なのだそうです。
「点鉄成金」について。
「鉄」とか「成」と使っているのは黄山谷が少しいじったか、記憶違いか、あるいは当時の言い回しか、直ちに判じ難いが、もとは「点石化金」といいまして、「列仙伝」にいわく、
許遜、南昌人、晋初為旌陽令、点石化金、以足逋賦。
許遜は南昌のひと、晋の初めに旌陽の令となり、石に点じて金と化し、もって逋賦に足る。
許遜(きょ・そん)というのは湖南・南昌のひとであった。(煉丹術に通じ)晋のはじめごろ、旌陽の町の長官となったが、石に(霊薬を)点けて黄金に変え、これを使って中央に納入すべき賦税をすべて誤魔化したといへり。
というありがたい典故よりできた成語。
「逋」というのは、今でも税法に「逋脱」というコトバがありますが、もともとは「逃」や「亡」の意、官の物を納入しなかったり、失くして返さなかったりして「欠負」を出すこと(「正韻」)だそうです。
おお、おそろしいです。許遜のヤロウはお役所のおカネの横領をしていたということです。容疑段階でも実名報道されねばならないぐらい悪いことですね。しかし、この記述だけだと誰も損をしていないような気もするのですが・・・。
今日はあたたかくなってまいった。これからは一雨ごとにナマあたたかくなってくるのです。なんとなく石が黄金に変わるように、季節も変化してきているです、というようなことを言いたかった。ウメも読むです。
莫説相公痴、更有痴似相公者。(張陶庵「陶庵夢憶・湖心亭看雪」)
相公の痴も説くなきに、更に痴の相公に似たる者有りとは。
はあ・・・、だんなのようなおかしな方もいるまいと思いましたのに、だんなみたいにおかしなひとが他にも居られましたとはなあ・・・。
晩明の浙江のひと、陶庵先生・張岱(字:宗子)(ここまで戻ってみて)のかっこいい随筆集「陶庵夢憶」より、「(西湖の)湖心亭で雪を看る」というかっこいい文章。書き出しはこんなのです。5W1Hです。
祟禎五年十二月、余住西湖。大雪三日、湖中人鳥声倶絶。
祟禎五年十二月、余、西湖に住めり。大いに雪ふること三日、湖中、人と鳥の声ともに絶す。
祟禎五年(1632)冬十二月、わしは蘇州の西湖のあたりに滞在していた。そのとき、大雪が三日間降り続き、ために西湖の湖面には、ひとも鳥の声もともにまったく無くなった。
雪が降りはじめてから三日になった日の夕刻、先生は船頭(舟子)に命じて舟を出させ、西湖に乗り出したのである。毛皮の上着を着、舟には火鉢を載せた。湖面から見ると霧が木々の枝にもやっていて、
天与雲、与山、与水、上下一白、湖上影子、惟長堤一痕、湖心亭一点、与余舟一芥、舟中人両三粒而已。
天と雲と山と水と、上下一に白く、湖上の影子は、長堤の一痕、湖心亭の一点と、余の舟一芥、舟中のひと両三粒のみ。
空も雲も山も水も、一面に白い。湖の上で影のように見えるのは、(蘇東坡が作った名高い堤防である)長堤一本と、湖心亭(という小さなあずまや)一軒と、わしの舟だけ・・・わしの舟はひとかけらの芥子のようであり、それに乗っているニンゲンは二三粒の芥子粒としか見えないだろう。
舟を漕がせて湖の中の小島にある湖心亭に向かわせますと、なんと二人のひとが先に到達しており、むしろの上に対座していた。お側仕えの童子がお酒を温めており、ちょうどよい具合に温まったところだったのである。
この二人、先生を見て大いに喜び、
湖中焉得更有此人。
湖中にいずくんぞ更にこの人有るを得ん。
湖の中で、どうやってこんなひとをこれ以上見つけ出すことができるだろうか。
と言うと、先生を引っつかんで席に連れ込み、ともに飲んだ。
余強飲三大白而別。
余、強いて三大白を飲みて別る。
わしはムリムリ大白(巨大な杯)に三杯飲んで、それからお別れしたのであった。
その二人の家を問うに金陵(南京)のひとで、この西湖に旅して来ているとのこと。
さて、帰ってきて、舟を降りようとしたとき、船頭(舟子)がつぶやくように言いおったわい。・・・
で、冒頭に戻ってください。
「相公」はもともとは宰相クラスの大臣を呼ぶときの敬称ですが、近世ではエラいひと一般の敬称になってしまいますので、「だんな」とか「でえじんさま」という感じです。
とりあえずもう雪降りそうになりから、雪ネタは置いといても勿体ないだけだから、今日使ってしまうとです。今日はちょっといい日。こギレイな方々への憎しみの雪がわが胸より消えることはもはやないわけだが・・・。
大雪三日湖中人鳥倶絶声

ぎぎぎ・・・。
錦嚢随上越王台、天海風濤亦壮哉。(范石湖「為謝楊少監」)
錦嚢随いて越王台に上れば、天海風濤また壮なるかな!
南宋の石湖先生・范成大の詩の一節です。この詩のほんとの題名はかなり長くて、
楊少監寄西征近詩来因賦二絶為謝詩巻第一首乃石湖作別時倡和也其二。
といいます。圧倒されるといいです。うはは。
おいらはこういのを読み解くのが楽しいわけですよ。読み下しますと、こうなる。
楊少監の西征近詩を寄せ来る。よりて二絶を賦して謝と為す。詩巻第一首はすなわち石湖に別れを為すの時の倡和なり。其の二。
楊少監が(最近の自作の詩をまとめた)「西征近詩」を送って寄越した。そのため、二首の絶句を作って感謝の意を表するのである。「西征近思詩」の開巻最初の一首は、なんと石湖のわたしの家でお別れしたときに、わたしと二人でやりとりした記念の詩が載せられているのだ。の第二首。
「楊少監」は人名で、こちらも最近よく出てくる誠斎先生・楊万里のことです。将作少監(官庁営繕部次長・・・いや、違うか・・・)という官職に就いたことがあるので、その官名で呼んでいますが、このときは遥か南の広東に赴任していた。一方、范石湖は、浙江の明州府(今の寧波)にいたです。広東から浙江にくるには、チュウゴクの華中と華南を分ける、有名な大庾嶺を越えて来なければなりません。
大庾嶺は、旅人ののどの渇きを癒さんとして、むかしの優しい賢者が、たくさんの梅を植えたところ。
だから、その峠を、ひとびとは「梅嶺」とか「梅花嶺」とも呼ぶです。その梅花嶺の向こうから、ゆかしい友人が著書を贈ってくれたわけだ。
冒頭の二句を解釈します。
「錦嚢」は以前触れたことあるですが、唐の李賀の故事。出歩くときにはつねに下僕に袋を背負わせ、途中でいい詩句ができると書き付けてその袋に投げ込んだ。出歩いて帰ってくると、その袋はいつもいっぱいになっていたという(唐才子伝)。袋自体が何でできていたのか知りませんが、李賀の美しい詩句を入れていたせいで、錦で出来たように美しい袋になったであろう、というので、詩文を入れた入れ物のことを「錦嚢」と言うです。
「越王」は普通は、呉越の争いで有名な長江下流域を支配した戦国時代の越王を指しますが、そうだと浙江より北になってしまう。ここの「越王」は「粤(エツ)王」のこと。
「粤」というのは、漢代に広東・広西のあたりを指した地方名でして、漢の初めごろ、秦から自立した南越王・趙佗という蛮王が割拠していた地域です。今の海南島やベトナムの一部も含めて「日南」ともいいます。漢がチュウゴクを再統一した後も、粤の地は僻遠のため、南越王国はほぼ独立国家のように世襲で数代残りました。この粤の王・趙佗が作った館の跡地が「粤王台」なのです。
おまえさんが錦の袋に詩を書きつけた紙片を投げ込みながら、いにしえの粤王台に上ってみると、
天は風吹き騒ぎ、(南方の)海は波濤逆巻き、なんともさかんなことであろうのう。
絶句ですから後二句続きがありますね。
書到嶺頭梅恰動、一枝応伴一篇来。
書の嶺頭に到れば梅あたかも動き、一枝まさに一篇の来たるに伴うべし。
詩集が梅嶺の峠を越えるとき、梅もそれに心動かされ、
一篇ごとに一本の枝が伴ってきた・・・かのように、おまえさんの新刊書は、香しいわい。
と言ってるです。
どうも一二句の颯爽たるに比べて、後の三四句が、どうもなあ、という感じが、わたしなどはしております。
この感謝の詩が広東の楊誠斎のところに届きました。
そこで、今度は誠斎先生の方が、
遣騎問訊范明州参政報章寄二絶句和韻謝之。
と題して詩を作った。
騎を遣りて范明州参政を問訊するに、章を報いて二絶句を寄す。韻に和してこれに謝す。
騎馬の者をつかわして、明州の范参政の様子をお訊ね(する手紙を送付)したところ、手紙を返してくれた。その中に二首の絶句を書いて寄越したので、その詩の押韻と同じ韻を使って、お気持に感謝する。
その詩に曰く、
一別姑蘇江上台、緑波碧草恨悠哉。忽然両袖珠璣満、割取三呉風月来。
一別す、姑蘇江上の台、緑波碧草 恨み悠なるかな。忽然として両袖に珠璣満ち、割取して三呉の風月来たる。
かつて姑蘇の長江のほとり、呉王の伝説の館跡でお別れした。
あの川の緑の波、碧い草を思い出すと、心が切なく悲しくなる。
今(おまえさんから来た手紙を読んで)突然にわしの両袖に、大粒小粒の透き通った玉が満ち満ちたわい。
いにしえから「三呉」といわれる長江下流の風や月の景観を割りとって連れてきてくれたから(。わしは懐かしくて涙がこぼれたんじゃ)。
という感じ。このやりとりは楊誠齋の方のがいいな、という感じ。なぜなら、おいらはウメといわれても特にあまり感じないけど、タマといわれるとエキゾチズムやロマンチシズムを感じて懐かしくて床しくて目頭熱うなるです。「涙はことごとくこれ日南の珠」(李白)なのです。
そういうことで、日南にキャンプ見に行こうと思ったですが、今週は止めて、来週都城のオープン戦と合わせて見に行くことにしましたよ。今日もさっきまでゲームしてたので、目がしょぼしょぼしてつらいとですたい。
毎飯極少、飲酒亦止一杯。(范石湖「桂海虞衡志」(文献通考所引))
毎飯きわめて少なく、飲酒また一杯に止まる。
石湖先生・范成大は、乾道八年(1173)、広州・静江府の知事となって赴任したです。命を受けて郷里の蘇州を出たのが同年十二月七日で、赴任の間に年を越した(この間の記録が「驂鸞録」)ので実際に着任したのは翌九年(1174)三月十日。ちなみに静江府というのは当時の言い方で、今の桂林のことである。
この桂林にいたころの地理・物産についての見聞の記録を「桂海虞衡志」というです。
明の後半からは今の形(文字数にして一万四千字)で伝わっているのですが、実際にはこれは写本の過程で後人が要録(要点だけ写し取った)したもので、元の時代に作られた、百科全書的書物である馬端臨の「文献通考」や、読んだ本の抜書きである黄東発の「黄氏日抄」などには、要録される前の文章があちこち抜書きされて伝わっており、原作は現在の通行本の十倍以上の分量があったことが明らかとなっています(中華書局・唐宋史料筆記叢刊「范成大筆記六種」2002北京所収 孔凡禮「点校説明」による)です。
今日引用してきたのは、この中で「志蛮」(蛮族どもについての記録)という章の中の、自杞(じき)という種族についての記述の後にある文章なのですが、通行本では「邕州・南江から南に連なるのは、羅殿・自杞等であり、自ら国の名としている。」と書かれ、羅殿国の風習が数行あるだけで次の話題に移っているのですなれども、「文献通考」に引くところの原本では、この後に、邕州に馬を売りに来る蛮族どもについての記述があります。これらの蛮族は大体同じような風俗なのだそうですが、そのひとたちが、冒頭に引用しましたとおり、
毎食すごく少ないものしか食わず、飲酒するときも一杯だけでおしまいにしている。
というすごく健康的な方々だったのです。
どうやってそれが可能になるかといいますと、
数咽始能尽、蓋腰腹束於縄故也。
数咽にしてはじめてよく尽くるは、けだし、腰・腹を縄に束ぬるがゆえなり。
数回飲み下すだけでもうハラ一杯になってしまうのは、腰と腹を縄で縛り付けているため(あまり入らないから)である。
だったのです。
なるほどなあ。やはり昔の方々は智慧があるから健康のために気を使っていたんだなあ。
ちなみにこのひとたちは、食後には必ず歯をこする(刷)ので歯が真っ白で、また汚れたモノがキライなので、道端などで汚物を見つけるとすぐに埋めてしまう風習あり。肉も食わないらしい。すばらしいですね。
ただし、怒りっぽくキレやすいらしいのです。(・・・しかし、これも現代ではもはやプラス評価になるのか。少なくともオンナの方から見ると♡(#^.^#)♡)。このため、商売をしに来てキレて暴れ始めると、邕州のひとたちはしばしば汚物を投げつけてやる。すると飛び上がって逃げていくのだそうでございます。
ところで、おいらはほんとにこの蛮族どもを称賛しているわけではないので、にやにやして引用しているだけですので、念のため。
石湖先生は同書の「志巌洞」(巌窟や洞窟の記録)の章で、
予嘗評桂山之奇、宜為天下第一。士大夫落南者少、往々不知、而聞者亦不能信。
予、かつて桂山の奇を、宜しく天下第一となすべしと評す。士大夫の落南者少なく、往々知らず、而して聞く者もまた信じるあたわず。
わしはかつて桂山(桂林の山)の奇(個性あり不思議なこと)は天下第一とすべきであると評したが、知識人の士大夫の方で、この南方までやってくるひとは多くないので、往々にしてそのすばらしさを知らず、また聞いても信じてくれないのじゃ、ぎぎぎ。
と言って嘆いております。
おいらは今日は壱岐まで来てみたです。しかし、別に聞く者信じるあたわずみたいな不思議なことは何も無いです。一応、天手長男神社寄ってきました。諸国一ノ宮の中で、もっとも由緒がないというか江戸末期にでっち挙げたというか、の神社とされていますが、おいらの知っている隠岐や対馬の延喜式内社に比べるとどうも白っぽいというか、どろどろが無いというか、「闇がない」の感じです。われらには垣間見えぬ闇あるかも知れませんが無いでしょう。けど、あんまり言っているとコワいのでまた福岡戻ってから批評するです。部屋があちこちバチバチ鳴っているです。ぎぎぎ。
この島のように、十時前には真っ暗にな(り、漁火だけが見えるだけだぜにな)る状況で、東京の都心さまや福岡の天神さまなどの様子をテレビで見てばかりいるのでは、日本は何もしてくれない、韓国に編入された方が・・・みたいなこと言い出す認知能力の変なひとも出るのでしょうね。・・・って、あれは対馬のエラいひとか。
メシはお櫃お代わりしてしまったおいらですが、飲酒は健康的蛮族同様、数咽にして足りるのでして、焼酎をほんの数口でまた酔っ払ってしまいまして、さきほどまで爆睡していました。また中途半端に起きてしまって暗くなっているとです。ぎぎぎ。・・・うわ、OCNにつながらん・・・。ということで、また明日のアップになりますね。さようなら。
採山釣水堪充腹、詠月吟風足暢神。(徐花潭「述懐」)
山に採り水に釣れば腹を充たすに堪え、月を詠じ風に吟じれば神を暢ぶるに足れり。
おお。
ありがたいコトバなので聞くです。李朝の儒学者・花潭先生・徐敬徳(1489〜1546)の「懐(おも)いを述ぶ」という詩であるです。先生の晩年の詩であるです。先生は、以後の朝鮮儒学と日本朱子学を規定してしまった李退渓大先生(1501〜1570)より一世代前のひとで、朱晦庵の理気二元論ではなく、北宋の張横渠のような気一元論を取ったとされ、李朝後半の朝鮮儒学がガチガチのリゴリズムに陥っていくのに対して、かなりいい加減というか闊達な雰囲気があって、おいらは好きなのです。彼も朝鮮名物ともいうべき両班の党争、いわゆる「士禍」の影響を受け、役人であることを嫌がって花潭に隠棲し、貧に安んじて道を楽しむの境涯を送った。
この詩の全体を紹介するとです。
読書当日志経綸、晩歳還甘顔氏貧。(読書当日 経綸に志し、晩歳還って顔氏の貧に甘んず。)
富貴有争難下手、林泉無禁可安身。(富貴は争い有りて下手し難く、林泉は禁ずる無く身を安んずべし。)
採山釣水堪充腹、詠月吟風足暢神。(山に採り水に釣れば腹を充たすに堪え、月に詠じ風に吟ずれば神を暢ぶるに足る。)
学到不疑知快活、免教虚作百年人。(学は疑わざるに到りて快活を知り、虚しく百年を作すのひとを教うるを免がる。)
いい感じですね。最後の句がちょっと難しいので、読み方違うカモ試練がまあいいでしょう。
せっかくだから訳しておくので、一回しか言わないのでへそのゴマかっぽじってようくハラに沁みわたらせるべし。
書を読んで勉強したあのころは、(いずれはそれなりの地位に就こうと夢み、)天下国家をどう治めていくべきかを考えていた。
なのですがそうはならず、歳をとって顔回※のように民間での貧しい生活を楽しんでいるわけなのですじゃ。
財産を作ったり高い地位に着いたりするには、いろいろとひとと争わねばならず、どこから手をつけるべきかなかなか難しい。
林と泉を楽しむ隠逸の生活は誰からも禁止されているわけでもないし、この身はとっても安穏としていられる。
山で果実や山野草を採集し、水辺で魚を釣る。それで自分の食っていく分は何とかなるですじゃ。
月下に詩を創り、風の中でながながと歌う。そうすれば、精神はのびやかになっていくですじゃ。
学問は(若いころの世間との関係を重視するものではなくなり)とうとう安心立命してこれでマチガイ無い、というぐらいになったので、いつも気持ちよく生き生きと暮らしとる。
むなしく(富貴を求めて)百年足らずの人生を費やしてしまうようなひとたちに、世俗のためになるようなことを教える苦しみも味わうことがないんじゃぞ。
※「顔氏」というひとは他にもいますが、ここでは孔子の弟子の顔回のこと。孔先生から「回は賢いのう。一杯のメシと一ひょうたんの水を飲んで、城内のキタナい小路に住んでいるが、いつもその生活を楽しんでいる。おお、回は賢いのう」と誉められたとです。孔先生に褒められるなんて、いいなあ。ハアハア
いい地位に到ったものですね。おいらもまだまだがんばって、先生の高みを目指すであります。
ところで、今日は壱岐で、二つのモノを見てきました。
@ 蕉門十哲のひとりであられる河合曾良が、壱岐で死んだのでそのお墓。
A 電力鬼(と書くと「昭和のプロレスラーのひとり」みたいですが)・松永安左エ門が壱岐で生まれたのでその生家(ただし工事中で中に入れてもらえず)
松永翁はやはり、網元のムスコでした。言い方はワルイかも知れませんが、やはり幼いころからひとを踏んづけることができないようなニンゲンには、大きなシゴトはできないのでしょう、とわしは思っているです。そういうのができないと、おいらのようなキョドりキモにしかならぬ。
河合曾良はもともと信州諏訪のひとなれども、実父母・養父母をはやくに失って、伊勢長島で住職をしていた伯父たまのところで育った。木曽川と長良川の間で育ったので、「曾良」という俳号にしたともいわれますそうです。伊勢長島潘に仕えるも、長島藩が廃藩されてしまいまして、リストラになって江戸に出て、蕉門に入る。芭蕉とともに奥の細道に出かけたので有名。(そういえば、高校のころ、「曾良」というアダナのやつがいたなあ、と思い出す。もちろん孤立派のおいらはアダナでひとを呼び合うような、そんな多数派さまの世界には加わっていなかったわけですが・・・、ああ、あのころのことなんか思い出したくない・・・キモチ悪くなってきた・・・)
行き々々て倒れふすとも萩の原
奥の細道でハラを壊して、北陸で芭蕉と別れたときの発句なり。この句を知っていたので、おいら、北陸あたりでこの後死んだというイメージが強かったです。しかし、芭蕉の没後も生きていて、六十二歳のときに、将軍代替わり(綱吉が死んだ)に伴う巡検使の派遣に引っ付いて、旗本の家来になって九州(最終的には対馬藩を巡検する班に入っていた)に出かけることとなり、
春やわれ乞食やめても筑紫かな
の句を詠んで西遊し、福岡から呼子を経て壱岐まで入ったところで病気になりまして、対馬まで行く一行と別れて壱岐勝本で亡くなったとです。
う〜ん・・・芭蕉隠密説は有名ですが、曽良さまも幕府の下っ端となってこんなところまで来ていたとは・・・、というか、長島松平藩の廃藩後江戸に出たという経歴からしてなんとなくアヤしいような・・・。
おいらは隠密でもスパイでも無いのですが、昨年、不退転の決意をもって血達磨と化して福岡来ることにして工作したころのことを思い出すと、曾良さんに共感するというかもしかしたら先の世でご縁もあったかなど思う。最近、精神よくなってきたので、また死ぬときのこととか死んだらどうなるですとかいろいろ考えているです。
その壱岐から帰ってまいり、最近に無くエラいひととお酒をお飲み申上げ、(エラいひとも昔は怖かったのですが、やはり相応の歳をとられていい感じのひとになってきているのだなあ、と心の中では思ったのですが表面上はやはりびびっているフリをして)かなり盛り上がってオモシロかったのですが、やはりわたくしはエラいひとの目の前で一度寝込んでしまうという失態をさらしはべりましたですよ。ぎぎぎ。
何夜無月、何処無竹柏。但少閑人如吾両人者耳。(蘇東坡「記承天寺夜游」)
いずれの夜か月なく、いずれの処にか竹柏無からん。ただ閑人吾が両人のごとき少なきのみ。
昨日と一昨日はどちらもお酒がまだ抜けていない状態で書いていたのでちょっと調子に乗りすぎているみたいに感ずる。また、最近、引用先がちょっと偏ってきている感あるです。反省しなくてもいいのですが、なんとなくどよんとす。
元豊六年十月十二日(1083)、夜。わたしは黄州にいた。着物を脱いで寝ようとしたところ、月の光が戸の間から洩れてきたので、元気になってしまった。起きて歩き回り、ともに楽しむ相手がいないことが残念だなあとか思いつつ町の北側にある承天寺に至り、そこに間借りしている張懐民くんを訪問す。
懐民くんもまた、簡単には寝付けなかったとのことで、
「ああ、先生ですか・・・」
と部屋を出てきて、ともに中庭を散歩したのだった。
庭下如積水空明、水中藻荇交横、蓋竹柏影也。
庭下は積水むなしく明らかに、水中の藻・荇交わり横たわるがごときは、けだし竹柏の影なり。
庭の地面は月光が満ちて、まるで澄み切った水の中にいるようで、ほら、水中の藻草が交わり横たわっているじゃないか、と思ったのは、寺の庭の竹と柏の樹の影であったか。
月の無い夜はないし、竹や柏だってそこかしこにある。けれど、わたしと君のような、ひまなココロのニンゲンはそんなにはいないのだろうね。
と東坡先生が「承天寺の夜の游びを記す」(東坡志林所収)に書いておられるです。
だからなんだ、と言われますと、実は昨日夜飲んでたひとのひとりが、二十年以上昔、上司にぎりぎりヤラれてキレまして、
「月の出てる晩ばかりじゃないんだから気をつけろよ」
と言ったとか言わなかったとかいうウワサを、十五年ぐらい前に聞いたなあ、と思い出したのでした。こういうのは労働組合用語なのかな。「コ×してやる」というと脅迫に該当するから、こういう言い方をするようになった、とか昔まったく別のところで聞いたような無いような。
東坡先生の描く黄州・承天寺の夜は、まるで夢まぼろしのような美しい夜でありますね。クラムボンとか出てきそうです。
ちなみに、張懐民というひとも、東坡同様、黄州に飛ばされて赴任してきていたひとらしい。でもこの長江流域の黄州流謫時代はのんびりしたものでして、六十過ぎてから飛ばされた海南島はクスリもメシも無く、コドモも栄養失調で死んだ大変なところだったのでした。
しごとも進まんし、おいらも月下の散歩でもしに行って友と語り合ったりしたいものだが、福岡の夜歩きはかなりコワそうだし、まだ寒いし、なによりともだちおらへんので、またこれも来世の宿題か。
吾方口吻生華、豈恤汝輩乎。(唐才子伝・張祐)
吾まさに口吻華を生ぜんとす、あに汝ら輩を恤れまんや。
最近宋代の話が多かったので、久しぶりで唐代の大らかなおハナシをするです。
張祐は字を承吉といい、南陽のひとで姑蘇(蘇州)に引っ越してきていた。高尚のことを楽しみ、処士を称した(朝廷に仕えていない、という意味の処士を称号としていた、ということですから、隠逸を看板にしていた、ということです)。元和(憲宗の年号・806〜820)から長慶(穆宗の年号・821〜824)のころ、一度蘇州の太守さまに勧められて長安に上り、天子に面会した(うまく行けば取り立ててもらえる)ことがあったが、面談の後、皇帝は当時詩人として名高かった元稹(白楽天の親友だね)に諮問したところ、元稹が
張祐雕虫小巧、壮夫不為。(張祐は雕虫の小巧、壮夫は為さざるなり。)
「張祐(の文章)はムシを彫刻するような小さな部分ではすばらしい技巧を持っていますが、立派なオトコがするようなことではありますまい」
と酷評しやがったので、落魄して帰郷した、という伝承あり。
その後、郷里ではうまく行かないので淮南に流れ、ここで詩人の太守・杜牧と出会ってお互いに認め合った。杜牧は張祐について、
何人得似張公子、千首詩軽万戸侯。(何ぴとか張公子に似るを得ん、千首の詩は万戸侯を軽しとす。)
どなたかおれの友人の張くんみたいなやつがいるですか。彼は詩を千首も作れば、軽々と一万戸の領地を持つ大貴族にもなれるやつ。
と評しているそうですが、別に取り立てたりする気は無かったみたい。
・・・そういえばのらくりょはどうしているのでしょうか。
さて、この張祐は詩を作るのに苦吟するタイプで、詩句を考え始めるとひとの言葉が聞こえないようになるです。
妻孥毎喚之皆不応。(妻孥つねにこれを喚ぶも、皆応ぜず。)
妻子や家僕が何度も呼んでも、まったく対応しなかった。
あんまり反応しないので怒鳴られた。これに対して冒頭のごとく曰く、
今まさにわしの口から華(のような美しいコトバ)が生まれでようとしているのじゃ、どうしておまえらごときのことを考えてやらねばならないことがあろうか。
おお、なんとオトコらしいことでしょうか、「壮夫」にあらざれば為さざるのわざかな。「漢」ですね。元稹の判断は間違っていたと言わねばなりますまい。
イケメンに媚びるオンナどもに媚びるフツメンどもに聞かせてやりたいわい。のですが、わが叫びは光の世界にまでは届かざらん。つうことで、以下のようなコトバをみなさんに贈るです。(おいらはこの世界からはなんとか逃げられたような気も。もう戻りたくは・・・)
歩哨1(注) かしこまりました! ・・・こうしておれたち兵卒は、ほかの連中がぬくぬくとベッドで寝ている間も、暗闇と雨と寒さの中で見張りをさせられるんだ。 (シェイクスピア先生「ヘンリー六世」(小田島雄志訳)1−2−1より)
(注)おそらくキモメン。特に証拠はないけど。
澹如秋水貧中味、和似春風静後功。(呉康斎先生語)
澹として秋水のごとし 貧中の味、和らげること春風に似たり 静後の功。
儒学者の言葉だから少し固いコトバを用いていますが、だいたい、
貧乏の味わいというのは、秋の水のようにさっぱりとして澄み切っているものだわい。
静かに瞑目して心を落ち着けた後の精神状態は、春の風のようにやんわりとして暖かなものなのじゃ。
というような意味の言葉です。うん、やはり貧乏はいいですのう。
なのですが、今、単純に「儒学者」といいましたが、呉康斎先生は確かに儒学者、それも当代有数の方だったのですが、ちょっとヘンなのでおいらは注目しているのです。(以下、伝に当たる部分は「明儒学案」より)
康斎先生・呉与弼(字:子傅)は明の初、洪武二十四年(1391)の生まれ、父は国子司業(帝国大学教授)を務めた呉溥というひとである。永楽七年(1409)に都(当時はまだ南京)に出て科挙試験の勉強をしようとしたが、ここで程朱の学(宋代の理学)に目覚めて受験勉強を捨て、小さな楼閣に引きこもり、楼を下らざること二年、儒学の基本文献や諸儒の語録を読み漁った。
永楽九年(1411)、おやじから郷里に帰ってこい、という手紙を受ける。ヨメを決めてやったからケッコン式に来い、というのであった。
郷里に帰る。帰りがけに長江で船に乗っているとき、強風があって舟がまさにひっくり返りそうになったが、先生は襟を正し正座したままであった。無事に着いたところで周りのひとが、「どうして正座したままでいたのですかな」と訊ねますと、
守正以俟耳。(守正もって俟つのみ。)
正しいことを守って、あとは天命を待つだけではありませんか。
と答えました。
ケッコン式をあげた。しかし、新妻とともに部屋に入ることなく、すぐに都に向かって、学問の続きをしたのであった。
というようなひとで、引きこもりで受験勉強もしないのですからニートに近い感じです。ヨメとの関係なども、おいらの感じでは、学問がどうとか倫理観の関係ではなく、喪オトコらしくびびっていたのでないかと思われ、かなり同情するところあるです。
やがて納得が言って楼閣から下りてまいりまして、郷里に還ってきた。引きこもり系ですから出仕などはしないのですが、おやじがエラいさんだったから土地を持っていたので、自作農したです。(恵まれていたです、くそ)。
やがて、その学問の深いことが口伝えに伝わり、科挙受験の勉強に飽き足らない多くのワカモノが弟子としてやってきた。
しかし、家が貧しいので、雨の中に蓑笠を着け、センセイと弟子たちと並んで畑を耕しながら易について論じ、帰ってスキを片付け、玄米や豆をみんなで食べたという。
その中には後に王陽明とともに明学の祖となる陳白沙という俊才も混じっていた。
白沙がはじめて入門した次の朝、先生は夜明けとともに起き出して自ら脱穀の作業をはじめ、大声で
秀才、若為懶惰、即他日何従到伊川門下、又何従到孟子門下。
(秀才、なんじ懶惰をなす、すなわち他日何によりてか伊川門下に到らん、また何によりてか孟子門下に到らん。)
「若い学者よ、おまえはそんなにさぼっていて、いつの日か、(北宋の大儒)伊川大先生の門下に遊学することができる思っているのか。(戦国時代の)孟先生の門下に遊学することができると思っているのか。」
とたたき起こして働かせたという。
うるせえ。そんな大昔のひとのところなんか遊学できるはずねーよ。てめえ、お花畑のユメ見てるんじゃねーぜ。
とは白沙は言わなかったようです。
というようにすごい立派なのですが、なんとなくオモシロいひとです(傍で見ている限りは)。
ちなみに、わたしが一番スキなエピソードは、
一日刈禾、鐮傷厥指。先生負痛曰、何可為物所勝。竟刈如初。
一日禾を刈るに、鐮その指を傷つく。先生、負痛曰く、「何ぞ物の勝るところとなるべけんや」と。ついに刈ること初めの如し。
ある日、イネ科植物を刈り取っていて、鎌で指を傷つけてしまった。しかし、センセイは傷を負って痛いのに「鎌のような物質に負けてなろうか」と言い、手当てもせずにそのまま刈り取りを続けたのであった。
というやつです。絶対おもしろいでしょう。傍で見ているかぎりは。ガセネタメール問題の民○党の永○議員という方も傍で見ている限りはオモシロくてしようがないのですが、あんなひとに目をつけられたらイヤだろうなあ。何か反論すると、「この風景!」ですからね。おいらは別に政治のことをどうこう言う気はないが、「自分の正義」に酔いしれるひとの近くにいるのだけは玉らんです。
此猫所在、雖数里外鼠皆来伏死。(明・陸子餘「庚巳編」)
この猫の在る所、数里外といえども鼠みな来たりて伏死す。
なんか眠くなってきたのでさっさか終わらすこととす。
明の陸子餘が書き残しているこの小文は、「猫王」というおハナシです。
福建布政使の朱彰というひとは、もともと交趾(北ベトナム)のひとであるが、蘇州に長らく住んでいた。
景泰年間(1450〜56)のはじめごろ、飛ばされて陝西の荘浪駅の助役(丞)をしていたとき、一匹の猫だけを貢物にして、北京の皇帝のところに赴く西域の蛮族の使者が駅に宿泊したことがあった。
朱彰は通訳を通じて、
「この猫にどのような不思議な振る舞いがあって皇帝に進貢なさるのですか」
と問うたところ、使者は書き示して(筆談?)曰く、「その異を知らんと欲せば、請う、今宵試みん」と。
猫は鉄籠の中に入れられており、その鉄籠は別の鉄籠の中に入っていた。つまり二重に鉄の籠に入れられており、そのままの状態で空室に置かれた。明朝部屋を見てみると、数十匹のネズミが籠の周りで死んでいたのである。
使者いわく、
「このネコのいるところ、数里の向こうからでもネズミが寄ってきまして、(こうやって)伏したまま死んでしまうのでございますよ。」(←引用部分)
けだし、これはネコの王というべきものであろうか。訓導の謝瑞が教えてくれた話である。
ネズをひきつけ、しかも嗅ぎすぎると致死する匂いかなにかを出しているんですかね。
こういうの大好きなのですが気にしすぎるとどんどん時間がとられてしまうので気にしないことにしているのです。・・・とはいえ、これは南方の山谷に住むという「霊猫」のことでしょうか。「和漢三才図会」に引く「本草綱目」にいう、
状は狸のごとく、文様は金銭豹のごとし。ヒゲあり。自らよく牝牡を為し、自ら孕んで生む。ゆえに之を食らうものは妬まず。
という単為生殖のすごい動物です。続けて、
その陰部・糞尿はみな香ること麝のごとし。功(はたらき)もまた似たり。
とありまして、やはり不思議な匂いがするようです。謎解きはどきどきします。
しかしながら「按ずるにこれは麝香猫ならん。じゃがたらとテンジクにいる云々」と種明かしされてしまっているので、がっかりです。
ち。
がっかりしたので、明日は朝から会議だし、永○代議士も入院するらしいからおいらももう眠ることにします。永○さんのおかげで、この数日なんだか楽しかったです。今日の昼間は少しうまくいかないこともあったのですが、永○さんはもっとたいへんなんだ、と思ったら自然ににやにやしてしまった。
名病太高、才忌太露。自古為然、于今為甚。(酔古堂剣掃)
名ははなはだ高きを病とし、才ははなはだ露わるを忌む。古えより然りと為し、今において甚だしと為す。
「酔古堂剣掃」は、明のひと酔古堂・陸湘客が、史記・漢書からはじまって菜根譚などに至る書物から、お気に入りのコトバを集めて編集したものでしたね。だからこのコトバもどこかに原典があるはずなので、そういうのを更に調べていくのは楽しいことですが、しかしながらめんどくさいので止めまして、これは
名前が有名になるのはまずいことであり、才能が目だってしまうのはいやなことだとせねばならないぞ。むかしからそうなのだ、現代は特にそうなのだ。
というコトバです。ほんとですよね。何わかりきったこと言ってるんだ、と言いたくなります。・・・ところが、この言葉を知らないような振る舞いをしているひとが時々いるので、驚くことがあります。なんでそんなにひとより前に出たがるのかね。
ということで、今日はおしまい、なのですが、今日は朝ちょっとびっくりしましたので報告するとです。
「ういうい」と言いながらなんとか起きて、パジャマ(といったって「パジャマとして売られているもの」ではなく、他人から二十年ぐらい前にもらったジャージとセーターの穴の開いたもののこと。「なんでそんなものを着ているのだ、パジャマぐらい買えよ」というご指摘もあろうかと思いますが、そんなものを着ていても困らないのと貧乏(性)なので、というか百姓の精神的遺伝子なので、モノがずたずたになるまでは棄てられないから、ということなのですキモ)を脱いだら、ズボンの方からぽろりと何か布団の上に落ちた。茶色い小さい平ペッタイものです。
「ナニでキモ?」
と思って摘み上げましたら、ぺしゃんこになったチャバキーゴ(※)でした。
「うひゃあ」
とびっくりしましたキモ。
まだ春季キャンプも終わらない季節にもうお出でになられたのか、しかもお潰ししてしまったのか、申し訳ないなあ、と思ってびびりましたが、しかし、昨晩〜今朝にお潰ししたにしてはあまりにも乾いておられる。そこではたと思い当たりました。実は昨日の夜着替えたパンツは横浜から持ってきた箱の中から、昨日の夜出したモノだったのです。おそらく横浜から、何年か前のチャバの死骸もろとも運んできたのだね。このチャバさまはおそらく自然死だな。おいらが潰したのではないな。と判明したので、ほっとしました。
でも、あわせて、なんか横浜にいたころのこと思い出したよ。今日は久しぶりで野球も観たので、いろんなこと考えたよ。ヤツらを思い出したとです。ヤツらはみんなコギレイなかっこうをしているから、ちゃんとしたパジャマも所有しているのでしょうね。
みたいな感じで今日もぶつぶつと終わるとです。
ちなみに、最近、自宅でお風呂に入れるので、十年ぶりでシェイクスピア全集(小田島雄志訳)読み始めました。巻末の自筆メモによると十年前(平成8年)は七月から読み始めたみたいですね。シェイクスピアは悲劇や喜劇もコトバがかっこいいのでそれはそれでいいのですが、やはり史劇といわれるやつが最高なのです。とにかく、まったく、いいヤツがいない。悪いやつらはみんな口が巧い。ぞくぞくしてくるです。特にオンナの悪いこと、悪いこと。しかもキモいやつとイケてるやつへの仕打ちの差とか見ているとさすがにシェイクスピアはすごいなあ、と思います。十年前のいにしえもホントに勉強になった。今においても甚だしい。こんなにホントのことが書いてあると、そのうちフェミにヤラれて焚書坑儒じゃないの、とか心配になりますね。アングロサクソンだし、ブリテンマニアのオンナたくさんいるから大丈夫か。
おお、なんとなく今日の日記はホントの日記みたいな感じでつね。明日は日南に行ってくるので更新はしない予定。そっちへ復讐に行っている、わけじゃないので安心してください、というか、ヤツらに、これ読んでいるヤツはいないはず。読んでるひとは安心だね。
※勇者ブリキーゴの弟分で、茶色いやつ。
我友五節君、交情不厭淡。(李退渓「次韻金惇叙梅花」)
われ、五節君を友とし、交情は淡を厭わず。
昨日は高速バスでまずは都城に行きまして、都城球場でひと用事果たして、それからJRで宮崎を経て日南へ。福岡〜都城と都城〜日南(油津)だと、連絡時間を入れれば都城〜日南の方がかなり時間がかかる、というのは、驚きはなくて、さもありなんというところでした。
今日は油津の天福寺球場でカープさまキャンプ見学。日南は、昨日の夜は春の嵐のように荒れていたです。今朝はぬくぬくとし、球場の裏山にもう桜さえ咲いておられ、南九州は春でした。感じだけいえば、春の盛りのような感じ。ウメの季節なんてずっと昔のことだった感じでした。
わたしは、五つの心清き方々を友にしている。その方々との友情は、とても淡白。
と、朝鮮の大儒・李退渓が歌っております。さて、五つの心清き方々(「五節君」)とはナニモノか。
ウメとタケとマツとキクとハスだそうです。センセイは、晩年に陶山書院にこれらを植えて「五節友」と称した。キモオトコには「脳内妻」がいたりしますが、退渓先生のコレは、「脳内友」なのですな。
なお、「淡を厭わず」という言い方は、「淡白がどんどん進んでも厭きが来ない」という言い方で、お互い淡白を好んでいる、ことを意味しております。
五言絶句なので後二句あります。
梅君特好我、邀社不等三。
梅君特に我を好み、社に邀(むか)えて三に等しとせず。
中でもウメのお方が特にわたしを好んでくださり、(自分たちの集落の)祭りに迎えて客として扱ってくれる。
ここもヘンですね。退渓先生は「ウメさんがわたしを特に好んでいる」と言ってるけど、違うでしょう。こっち(退渓先生)が、ウメを特に好きなのであって、ウメの方が好んでくれる、ということはありえないはずなのです。自分の感情を相手に投入して、「あっちがオレを好きなのだ」と勝手に思い込んでしまっている。ストーカーへの王道を進んでおられるとしかいいようがないです。
えー、もともとは春だからウメのハナシ、と思ったのですが、春だから脳内妄想のハナシ、というオチになってしまいました。
なお、実は「社に邀えて三に等しとせず」の句は、おいら意味がわからんのです。この詩(「金惇の梅花を叙するに次韻(韻をあわせて続ける)す」)は金惇というひとの梅花の詩にあわせて作った詩ですから、金惇さんの詩の方を見ると、個別の事情ないしは参考にした典故がわかるかも知れないのですが、現段階ではわからないとです。しようがないので、「社」を「社日」(うぶすなさまのお祭り)と解し、「不等三」を「自分たち」「神様」「その他のひと」の三番目にはしない、自分たちの仲間として扱ってくれる、と解して訳してみたが、少しムリあるか。どう解すればよいか、どなたか教示願いたし。
天福寺球場から、鵜戸神宮に参りまして、それから宮崎を経て帰ってまいりました。帰りの高速バスは隣の方がよくおハナシになる方で、ちょっと疲れました。
ちなみに、鵜戸神宮については、昨年、山口県由宇球場に行ったとき、
「まさか生きている間にここまで来れるとは思えなかった。はるけくも来たものかな・・・」
の思いを持ちましたが、本神宮についてもまったく同じ思いです。「宮崎の南の方に鵜戸神宮なるところがあるらしい。いつかはその鵜戸神宮なるところに行ってみたいものよのう」と長く思っていたのですが、偶然とかナニとかいろいろあって、とうとうここまで来れましたよ、と感慨あり。
しかしあれですね、路線バスから「鵜戸神宮入り口」のバス停で降りたのはおいらひとりで、そこから一山、ひいひい言って越えたのに、本殿あたりに着いたら、家族連れやカップルやらの参拝客がわんさかいました。本殿近くの駐車場まで、観光バスやおくるまでお見えになって楽しくお参りに見えておられたみたいです。夫婦和合と子育ての信仰を集めておられるそうだからしかたないというか、おいらのような境遇のモノがお参りにくるのがおかしいのだ。
ニンゲンの中にはそうおっしゃって、不相応な所からおいらをはじき出そうとなさる方もたくさんおられるかも知れませんが、神社の方は受け入れてくださり、本殿裏の「女神の両乳」(そういう石)も惜しげなく見せてくださいましたよ。
この神社は、海際の岸壁上にある「海岸神社」である、というだけでどきどきするのに、しかも「洞窟神社」だからかなりの高得点(わたしの脳内採点)。一応、形態的には、江ノ島竜神と同じですね。神仏分離前は修験道の聖地でもあったそうで、いろんなひとが修行に来たそうで・・・そうそう、険祖・愛洲日向守移香さんもここで参篭して極意を得たそうです。愛洲日向守は一応おいらの同郷人なので、名を挙げておくなり。
一応、願いダマを行った。結果、願い事かなうはず、となった。・・・願いごと、ねえ。たくさんあるような気もするので、そのうちどれが成就するのでしょうね。まずはこの国と地球のイヤサカか。幾千幾万幾億の天地にあまねき神々よ、われらの祈りが聞こえぬか!
ちょっと眠いので、写真・キモ絵とか、いろいろアップしたいモノはあるのですが、もう寝ることとす。帰りのバスでずうっと話し聞いていたのはまいった。
刺史避箭、人誰致死。(資治通鑑・唐紀)
刺史箭を避くれば、人誰か死を致さん。
今日はまたヤフードームでいろいろ考え事をしておりました。
ウ〜ン・・・ということで、のどの渇きを感じまして、売り子さんに手を挙げたところ、・・・無視。
おいらは目に入らないようです。売り子さんはオンナでしたから、そうなるのでしょう。おいらは新幹線の中でも、昔からよく売り子さんに無視されるのです。以前は声が小さいんだろう、とか、手を挙げてもずんぐりだから腕が短いから見えないのだろう、とか相手の立場をおもんぱかりまして解釈していたのですが、去年、本田透さんなどの本読んで、この売り子さんたちの心理構造はわかるようになりました。また毎日、某巨大掲示板の「喪男板」も読んで、オンナのひとたちの思考とかわかるようになったです。くそ。悔しいとですばい。
ということで、ナニが言いたいかと言いますと、オリたちキモはオンナのひとに媚びても、「カネだけ置いてけ」とキモ悪がられるだけですからしようがない。そこで「そうだ、経営系オヤジの気を引こう」と考えましたので、今日はオヤジの気を引きそうな歴史モノとしたわけです。
資治通鑑・唐紀・高宗永徽四年条より。ちなみに、永徽四年は西暦653年。
睦州地方(現在は杭州の一部)で陳碩真というオンナがあやかしのコトバをもって民を惑わし、その妹の夫である章叔胤というものとともに反乱を起こしたのであった。陳碩真は自ら「文佳皇帝」と称し、叔胤を僕射(ボクヤ。唐制の宰相)に任命した。
この年十月甲子の日、叔胤は人民を率いてまず睦州府の東百五里にある桐盧県を占領し、次いで睦州府、さらに杭州の於潜を落とし、ついに歙州に迫った。政府は楊州刺史(刺史は唐制の府県知事)・房仁裕に詔勅を下し、命じてこれを討たしめたところ、反乱軍は矛を転じ、陳碩真はその徒党の幹部・童文宝に四千人の乱兵をつけて婺州に攻め込んだ。
婺州刺史・崔義玄は兵を出してこれを拒もうとしたのであったが、当時、人民どもは「陳碩真は呪術に秀でており、その軍隊に逆らうものは必ず一族もろとも呪い殺されてしまう」と噂しており、州の兵士たちも恐怖の念にとらわれていたのであった。この様子を見て、司功参軍(この官名の「軍」は、「軍隊」のことではありません。地方行政組織そのものを「軍」といっているのでして、州の判司といわれる役人のうち、功課を司るモノが司功参軍である。州県の総務担当参事官、と訳してみる)の崔玄籍は、「反乱の兵を起こした者は大義が無いのですから、戦術を整えたとしてもなおすら成功することはないのに、いわんや妖妄に頼るような輩、なにほども保つわけはござらんぞ」と励ましたので、義玄は玄籍を先鋒の隊長にし、自ら本隊の兵を率いて出陣した。
いかほどもなく賊軍と会合し、激しい矢の撃合いとなった。護衛の将兵は雨のように降る矢から指揮官を守るべく、楯で義玄の四方を蔽ったのであったが、義玄は大声で、
刺史であるこのわしが矢を避けたりしていたら、兵隊が死んでくれないではないか!(←冒頭に引用の部分)
と呼ばわって、楯を片付けさせたのである。
これを見た州兵たちは「おお」と感動して発奮し、ついに賊軍を大いに破った。斬首数千といい、追撃して睦州の境に至り、約一万人の反乱軍の降伏を受け入れた。
十一月庚戌の日、楊州の房仁裕の部隊と合流し、陳碩真や章叔胤を捕らえ処刑し、その他の残党もことごとく平らげた。義玄は功績を以って御史大夫(検察長官)となった。
おわかりいただけるでしょうか。チュウゴク歴史は智慧の宝庫である。やはりリーダーは先頭に立たねばならないのだ。そうすれば部下はついてくるものなのです。云々。
・・・と書いておいて、にやにやしておく。
歴史モノはですね、いくらでもネタはあるのです。でも、わたしの考えるところ、歴史モノを読む最大の意義は、「肝冷斎の第一定理」とされます、
○ニンゲンの愚劣さは何度も何度も繰り返され、とめどなく繰り返され、イヤになっても繰り返され、絶望か諦念以外の結論はもたらされることがないのであるのじゃ。
ことを身に沁みて知ることにあると思います。ここでいう「愚劣さ」というのは、「戦争」とか「弾圧」とか、そんな難しいことではなくて、ものすごく単純なこと、「(いいことは)オレ・アタイに手柄よこせ」と「(悪いことは)オレ・アタイのせいじゃない」というこの二つだけなのです。そして、このことが骨に染み渡るほど分かるためには、やはり「のんべりだらり」と時間をかけて、大部な歴史書をだらだら読むしかないのです。そのことを少しでもわかってもらおうとすると、こちらは、かっこいいところを少し引用したなら、その後日談や背景事情を説明しておかないとならなくなります。たとえ立派なひとがいたとしても、その後日談を読めば、立派なひとはまわりのひとが寄ってタカって潰してしまうのがよくわかったりするのです。というように、いろいろと説明しないといけないので、おいらは歴史モノを出してくるのはイヤなのだ。
たとえば、この先頭に立って闘った崔義玄は、後に、則天武后の内意を受けて、唐朝の草創の功臣であり、太宗皇帝から高宗の輔佐を命じる遺詔(皇帝の遺言のこと)を受けた、名臣・長孫無忌を無実の罪を着せて逮捕し、獄死させてしまいます。これによって、武后の権勢への歯止めが無くなってしまったのです (もう一人遺詔を受けたのは名将・李勣ですが、彼は「陛下の家内の問題にはわたしは申すべき意見はございませんのじゃ」と言って高宗皇帝から武后への権限委譲を追認してしまいます)。
まあ、単純化しすぎのところもあるのですが、少なくとも後世の史家からは「御史大夫は天子の耳目官なり、功績をもって与える官職にあらず。崔義玄をこれに当てたのは、任命の誤りである」と酷評されている権勢に阿るタイプのひとであることが後々わかるのだ、ということも言わないといけないのですが、経営オヤジに気に入られるため、だけのために歴史モノを使っただけなので、マジメにやる必要ないから、今日は言わないでおくのです。
と思っているうちにいつの間にか「何とかオリンピック」は終わってたのですね。おいらは決してスポーツ自体が嫌いではないのですが、とにかく地上波放送とか新聞で国際スポーツ祭典モノを見るのが不快なので、観たくないのです。煽りに煽っておいて、日の丸の旗巻いて滑っている金メダル選手は突然映さない・・・など、報道している方々がまともな方々じゃないのは、この数年の間においらたちにももうわかってるんだから、ね。星条旗とロシア国旗の真ん中に日の丸。イタリア兵が敬礼。君が代をきちんと歌っているメダリスト。これではニホンが立派な国に思える・・・からマズいよね。はあ・・・。
最大野党が、「最大与党さえ言いなりになる」と指摘している「闇の組織」が見張っているから、報道もいろいろ自粛してるのかも知れません。それにしても、地上波放送でオリンピック観てまともな神経保てるひと、というのはどういうひとなんだろう。大河ドラマとか見て、しかもまともな歴史感覚持っているひと、レベルなのかな。ということは、そんなひといねーよ、と思うのですが・・・ぷぷ、こうやって敵を作っていく。
生不逢時、死何足惜。(資治通鑑・唐紀)
生じて時に逢わず、死するも何ぞ惜しむに足らん。
ほらほら。
一つ何か見つけると、他の書物を探すのがめんどくさくなって、しばらく同じ本からの引用を続ける癖が出てまいりました。しつこい、とかナニにこだわってるんだ、とか評価は無く、批判だけはされるのです。誰も相手にしてないのだから批判さえされてないぞ、という声も聞こえてまいります。ぐぐうう。悔しいのれす。生きていても時流に合わないのだ。死んでしまってもナニも惜しくないのだ。というか、どうもかなり吹っ切れてまいっておりまして、そろそろ何かでかいこと(新聞沙汰とか)起こしそうな気さえしてまいりました。スパイのひと、少し注意報カモですよ。
さて、昨日は唐朝の三代皇帝(実質は二代というべきか)高宗の即位後四年目のころ、唐の初めのころの話題だったのですが、今日はもう時代は晩唐に近く、懿宗(いそう)皇帝の咸通十一年(870)の事件ですぞ。
秋八月、乙未、同昌公主薨。
八月乙未の日、同昌公主さまがお隠れになられた。
といって事件が始まります。「公主」は皇帝のムスメ。内親王さまですね。ちなみに、「公主」になれるのは母親がエラいムスメだけで、「公主」になれないムスメとか、あるいは皇帝のマゴムスメや姪っ子などは「郡主」とか「県主」とかになります。
と。まあ、そういうことは今度でいいや。
えー、同昌公主さまは懿宗皇帝のムスメで、父帝のご寵愛ひとかたならず、であったお方で、この前年、咸通十年に右拾遺の官にあった韋保衡のもとにお輿入れなさったばかりの方です。そのお輿入れの際には、
傾宮中珍玩以為資送、賜第於広化里・・・。(宮中の珍玩を傾けてもって資送し、広化里に第を賜う・・・。)
というような有様でして、賜った屋敷は窓も扉も全てさまざまな宝で飾り、欄干も薬を捏ねる臼もたらいもみんな金銀で作ったもの、金の糸で編んだ箕や籠も賜り、銭五百万サシも賜った、ということで都中のひとがびっくりしたほどだったのです。
そのナマじゃないやマナ娘が亡くなりましたので、皇帝は悲しみの思いにあふれまして、診療に当たった宮廷付の医官・韓宗召ら二十余人を即座に死罪に処し、あわせてその親族三百余人を収監した。
中書侍郎・同平章事(内閣総理大臣兼枢密院議員・・・だと権限強すぎるか・・・)の劉膽(※「膽」ではなくてホントは「目」偏なのですが・・・)は諫言を職とする官にあるものを集合させ、誰かに皇帝に諫言させようとしますが、
諫官莫敢言者。(諫官あえて言う者なし。)
諫官には、誰ひとりとして敢えて諫言しようとするものはなかった。
そこで、自分で何とかするか、ということにしまして、「ひとの命には長い短いございます、ほとんど運命でございまして・・・」から始まりまして、「今、医官の親族まで処刑するのではないかと国民の物議も沸騰しております」など常識的なことを文章(疏)にして奉りましたが、
上覧疏不悦。(上、疏を覧(み)て悦ばず)
皇帝は上奏文をご覧になって、ご気分を損なわれた。
「上不悦」(皇帝はご気分を損なわれた。)というのは、諫言を容れない、というときの常套句です。
劉膽はさらに、京兆尹(首都長官)の温章(※「章」にはホントは「玉」偏が付くのですが)とともに皇帝の御前で色をなして諫言しますが、皇帝は大いに怒り、二人を叱り出してしまった。
十一日後の同月丙辰の日、処分が下りまして、劉膽は同平章事の職はそのままにして中書侍郎を止め、荊南節度使に左遷されることとなり、温章は振州司馬(町村の警察署長)に貶されることとなった。温章は歎いて言った。
「生きていても時流に合わないのだ。死んでしまってもナニも惜しくないのだ。」(←ここが冒頭引用文)
そして、この晩、薬を仰いで卒した。
ということで死んでしまいました。ニセモノメールで個人の名前まで出して一方的に批判(見てください、この一方的な攻撃、この風景。言論封殺、もっとも恥ずべき行為・・・ああ、だめだ、永田議員の言い回し、覚えてしまった・・・)して、ガセネタで国会を止めても、国会議員やり続けるひともいるのに、死んでしまうとはなあ・・・。さすがはチュウゴク、立派なひともいるものだ。
を結論にしてみようかと思いましたが、しかし、ここでこのおハナシは終わりではないのです。
皇帝は自分を批判して死んだというので、もう死んでいる温章に対して烈火のごとく怒りまして、
「いやしくも何かの陰謀がなければどうして自殺まですることがあろうか。悪が体に満ち満ちており、死んでもなお余りある責任があるに違いないであろう。三日間、町の外に死体を埋めて罪を償わせ、その後葬ることを許せば、
使中外快心、姦邪知懼。(中外をして快心ならしめ、姦邪をして懼れを知らしめん。)
政府の内外ともに快く、悪いやつらは恐れることであろう。」
と詔勅を下しまして、さらに翌日には右諫議大夫・高湘ら劉膽派と目されていた高官たちを次々に嶺南に追放することが決められます。
実は彼らの追放は、同昌公主のダンナであった韋保衡からの申し出に基づくものであった。保衡はさらに、既に処分の発表されていた劉膽について、
與医官通謀、誤投毒薬。(医官と通謀し、誤ちて毒薬投ず。)
「あの方は・・・実は・・・(先に処刑された)医官たちと相謀って、誤まって毒薬を処方させたのです。」☆
☆後世の史家曰く「通謀して、しかも誤って投ず、というのはどういうこっちゃ。誤って投じたのなら通謀ではありえないであろう」と。というようなことも懿宗はもはや判断できなくなっていた。
と讒言したので、康州刺史への左遷が決まった。この讒言は、劉膽の政敵であった路巌が保衡に言わせたものだったのですが、路巌は長安から二千キロ程度の康州では生きて帰ってこれてしまうかも知れんから生ぬるい、と考えまして、唐の領域図(「十道図」)を取り出して、一番遠くにある瓘州(※「瓘」と書いてみたけど、実際は「王」偏を「馬」偏に置き換えるべし)という地名を見つけ、ここに左遷させるよう進言し、そのとおりとなりました。
ああ、おもしろいですね。このいがみ合い、この風景。
実はこの事件はまだ終わりではないのですが、誰もおもしろがってくれそうにないのでこのへんで終わりとす。
と思っているうちにもうそろそろというか今日で月末なのです。ああ、もう福岡来てから二月も経ってしもうた。かなり徒過ということばがぴったりする感じである。