↑旅はつらい・・・が、普段の日常よりは楽。

 

平成20年10月12日(日)  表紙へ  一昨日に戻る

会社行きたくない。コワい。

と思いきや、明日も休みです。ああよかった。寿命延びた心地あり。

昨日から近江八幡に行って観光してました。長命寺の808段の石段昇った。群雲門跡も見てきた。ありがたや。

近江八幡といえば伴蒿蹊の出身地ですので、生地見てきたです。ありがたや。

しかしながら本日もまた旅寓にあって蒿蹊の書が手元に無き故、代わって橘南谿「東遊記」でガマンします。その巻四にいう、

・・・尾州の一士人用事ありて江州大溝を過ぎることがあった。

「そういえば、中江藤樹の墓所が小川村にある、と聞く。一度参拝していこうではないか」

と思い、そのあたりの畑にいた一農夫に道を尋ねた。農夫は「畑道を行かねばならぬゆえなかなか他国のひとにはわかりずらい。案内し奉らん」と言うて先に立って歩きだした。

程なく小さき藁屋に至り、しばし待たせ給へとて内に入り、やがて出づるを見るに木綿の新しきひとへ物に布の小紋の羽織を着けたり。

藁屋は農夫の家であって、作業着から礼服に着替えてきたのである。

尾州のひとは

(なんとも丁寧な男じゃ、ひとを案内するのに礼服に着替えるとはのう。やはり上方に近いゆえ尾張・三河とは風俗が違うだがや)

と思ったのであった。

「ではまいりましょう」

という男のあとについて行くと、しばらくして墓所に至りぬ。農夫は墓所の周りを囲む竹垣の戸を開くと、

「いざ入りて拝し給へ」

といひて身は戸外に拝伏せり。

士人大いに驚き、さては衣服を改め着しは、我がためにはあらで、藤樹先生を敬するにてありけると心付き、

「あなたは藤樹先生の家来筋か何かに当られるのですか」

と聞くと、

左には候はず、されどこの村の者は一人として先生のご恩を蒙らざるなし。

親をうやまひ子をしたしむ事をわきまへしりたるは先生の御蔭なれば必ずおろそかに思ふべからずと、我が父母も常々教へ候ひぬ。

と言うた。

これは既に藤樹が四十一で死してより百年も後のことである。そのころに至っても村びとは父母からことごとに藤樹先生のことを言い聞かされておったということじゃ。聖人の遺徳とはかくも綿々たるものか。

ただし、藤樹先生は「近江聖人」といわれますが、近江八幡のひとではなくて湖西のひとである。

なお、今回安土城には行けませんでしたが、近江八幡や安土はもっと京都に近いかと思っていたが、割と距離があるということもわかった。

以上。

なのですが、二日ぶりの更新なので付録としてチュウゴクの話しもしておきましょう。

ムカデに刺されたときは、

止見土地、神知載霊、太上老君急急如律令勅。

土地を止め見て、神は載霊を知らん、太上老君急急たること律令勅の如し。

これは呪文ですから意味のある言葉だとおもってはいけません。意訳してみると、

この地の鎮守の神さまをお呼び止めして今年の幸いを掌る神様は誰かと聞いてみた。太上老君(天上の一番えらいひと)が「はやくしろはやくしろ」と正式の勅を以て命令するように命令しておられるぞ。

・・・みたいなところでしょうか。

そのように念じながら右手を以て刺されたところをさすり、呪文を七回心中に唱えること。それから手で刺されたところを撮み、毒をとって捨てるふりをする。

頃刻痛止。

頃刻にして痛み止む。

あっという間に痛みが無くなる。

そうである。

ヘビにまとわりつかれたときにはどうするか。

・・・・というのも知ったのですが、みなさん興味無いみたいなのでやめておきます。これは「庸闕ヨ筆記」に書いてあった。清の終わり、十九世紀も後半になって、洋務派に近いところにいた陳其元にしてこれであるから、東洋近代化の先が思いやられるところである。

 

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