↓わしには入っとらへんで。

 

平成20年10月17日(金)  表紙へ  昨日に戻る

今日はえらいひとに都内某所のパーティに連れてってもらった。普段会えないようなひとを間近に見、普段食べないようなものを食うた。

しかし、普段食わないような食べ物とはいえ、その中に(べつ)のスープは無かった。

「鱉」(ベツ)とは何ぞやというと「鼈」(ベツ)のことである、と「集韻」に書いてある。「鼈」とは何かというと「和漢三才図会」に

和名 加波加米  俗云 須豆保牟

(かはかめ)    (すつほむ)

とあり。要するに「すっぽん」のことだという。同書では、さらに「本草綱目」を引いて、すっぽんは耳が無く目で音を聴くとか、雌しかおらずヘビや大亀を配偶とする、とかいい加減なことも書いてあるが、前近代のひとが言っていることであるからそうそう信用できないであろう。

・・・清・康煕年間のこと、将軍の梁某が「鱉」のスープを食いたいと庖人(料理人)に命じた。そのため、

庖人剖之、中有一小児、長三寸。

庖人これを剖くに、中に一小児あり、長さ三寸、肢体倶全。

料理人がすっぽんの甲羅の間に庖丁を入れ、肉を切り開いたところ、中から胎児が出てきた。大きさはようやく三寸ぐらいになったところで、もう手足すべて具わっていたという。

このこと上海・松江周辺では大いに話題になり、ためにすっぽんを食べなくなるひとが多かった。

当時すっぽん屋さんというものがあったかどうか知りませんが、すっぽん屋さんというものがあったとしたら、大損害だったことでしょう。

或云、鱉中往往有之。

或いは云う、鱉中往往これ有り、と。

あるひとが言うには、

「何を騒いでいるのか。すっぽんの中にはそういうのはよく入っているものだぞ」

と。

又言、鱉交水面、窺見過往舟中人形、感而肖其像。

又言う、鱉水面に交わり、過往の舟中の人形を窺い見、感じてその像に肖るなり、と。

またあるひとが言うには、

「すっぽんというのは水面のあたりにぷかぷか浮いていて、行き来する船の中の人間の形をちらりと見ると、感応してその姿に似てくるものだ。

その腹の中に人間のようなものがあったとて何の不思議があろう」

と。

ほんとうであろうか。

これはおそらく康煕十四年(1675)ころの事件であったと思われ、同時代の董蒼水先生は、「三岡識略」巻七の中で

恐亦未確。

恐らくはまたいまだ確かならず。

おそらく、いずれも確認しようのない臆説であろう。

と言っておりますが、四百年以上も前のひとが言っていることだからこれもそうそう信用できません。誰か確認して、報告してくださるといいのですが。

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やっと金曜日ですなあ。明日はバーベキュ食うです。ああ、もしも来週の月曜日までに世界は滅亡するのだと確信できたなら、今本当に幸せな気持ちになれるだろうに・・・。

ちなみに昨日の設問の答えは、@またはAまたはBが正しいのです。唐の時代の宮廷でなくても、同じようなシチュエーションは今現在のわれらの周りにも多かれ少なかれ見られるもの。仇子良の言葉はゲンダイにも通ずる「真理」に触れているのです。そこから何かを学ぶよう努力せねば、何のための学問であろうか。ニンゲンのやることは昔から今まで何も変わっていないのですから、「前代の興亡」のゆえんに思いを致さねばならん。

賢者は歴史から学び、愚者は経験から学ぶ。さればCを選んだひとは歴史から何も学ばない愚か者ということになってしまうのである。次回がんばろう。

 

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