魏の元帝の咸煕二年(265)、秋八月。
襄武県より上奏ありていう、
有大人見。
大人の見(あらわ)るるあり。
大いなるひとが出現いたしました。
このひと、
長三丈余、跡長三尺二寸。
長三丈余、跡の長さは三尺二寸なり。
という。魏・晋代の一丈は2.4メートルぐらい、そして、百寸=十尺=一丈ですから、
背丈は7.2メートル以上あり、足跡の長さが77センチぐらいであった。
でかいのですが、
髪白著黄巾、黄単衣、拄杖。
髪白く、黄巾・黄単衣を著し、杖を拄(つ)く。
白髪の老人で、黄色い頭巾に黄色いひとえの服を着、杖をついていた。
といい、(昨日の女と違って)まともなひとだったようです。
自ら呼んで、民王始と名乗り、
今当太平。
今まさに太平なるべし。
今こそ大いなる平和の時代が来ますなあ。
と告げた。
時はまだ三国の闘争の続く時代である。ひとびと、
「何故に太平といえるのでございましょうか」
と問うに、民王始曰く、
「いにしえの聖天子、伝説の堯や舜は、位を我が子ではなく徳のある者に譲った。いわゆる「禅譲」(「禅」も「譲」も「ゆずる」の意)である。今や、その時代が再来しようとしているなあ」
と。
同じ月、魏の大権力者であった司馬昭が死んだ。
彼は魏の帝位を奪わんとして為さざるなく、
司馬昭之心、路人所知也。
司馬昭の心、路人の知るところなり。
司馬昭が何をしようとしているかは、路上を歩いているひとがみんな知っているぐらい明白なことだ。
と言われるほどでありましたが、生前はとうとう帝位に就くことはなかった。
十二月に至って、司馬昭の嗣子・炎、魏元帝に迫って帝位を退かしめ、自ら帝位につく。国号を改めて晋といい、改元して泰始元年とした。「禅譲」が行われたのである。
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三国志・魏書巻四に書いてあったです(同じ記述が「晋書・五行志」にもあり)。今日のひとは、なんだか司馬氏に帝位が譲られることを正当化するためのスポークスマンっぽいところさえありますが、同じ巨大とはいえ昨日のひととは違って、たいへん常識的なひとで「ほっ」としました。