↑蓬莱山。天堂でなくてもこちらでもいい・・・。

 

平成20年10月23日(木)  表紙へ  昨日に戻る

昨日の続き。清の庸闕ヨ老人・陳其元が生涯に出会った二人めの善人・無錫の蓮村・余治のこと。

蓮村は楽魚と違い、官位を持っていた。ただし、地方学校の先生である「訓導」であり、官職の中では最下の地位であった。

彼は、

遇善事、必竭力成之。勧人為善、舌敝唇焦、不以為苦。

善事に遇いては必ず力を竭(つ)くしてこれを成す。人に善を為すを勧めて、舌敝(やぶ)れ唇焦げるとも、以て苦と為さず。

善いことをする機会があると、必ず全力を尽くしてことを成し遂げた。また、他人にも善事を為すことを勧め、舌が破れ唇が焦げるほど熱く語って、それを苦労だとは思わなかった。

出身の無錫の地だけではなく、江浙の諸地方を巡って、女の子が生まれると濡れタオルを口に当てて殺してしまう「溺女」の風習を止めさせるべく、

以因果戒人、詢詢誘掖勧化。人苟允之、即叩首以謝、不以為辱。

因果を以てひとを戒め、詢詢として誘掖勧化す。ひともしこれに允(いん)するあれば、即ち叩首して以て謝し、以て辱となさず。

因果応報のことわりを以てひとびとを戒め、教えさとして善に誘い、助け導いて感化した。諭されたひとがその言に従うことがあれば、即座に頭を下げて感謝し、(ひとに頭を下げることで)悔しいなどとは思わなかった。

「允」(いん)は、「信じる」「肯う」の意。

彼は普及啓発・説得感化型の善事をするのが得意だったようで、あるとき、

自撰院本、糾会数千金、以忠孝節義事演劇、名曰善戯、使観者興起感動。

自ら院本を撰し、数千金を糾会して、忠孝節義の事を以て劇を演じ、名づけて「善戯」といい、観者をして興起感動せしめんとす。

自分で台本を書いて、数千金のお金を募り、忠孝や節義のことを題材にした演劇を上演した。これを「善行芝居」と呼び、観た者を感動させ、善事に進めしめようとしたのである。

「そんな芝居面白いはずないではないか」

と思うでしょう。

昔のひともそう思ったようで、

世俗習于浮麗、聴古楽則惟恐臥、故志不得行。

世俗は浮麗に習い、古楽を聴けばすなわちただ臥するを恐る、故に志行うを得ず。

世の中のひとは浮ついてきれいなのを好む習性、彼の作った芝居で演奏されるような古い音楽を聞くと、眠ってしまうことを心配する輩ばかり。上演を失敗に終わった。

しかし彼はまったく後悔するところが無かったという。

わたしがかつて無錫で県知事をしたとき、蓮村は役所までやってきて、捨て子の救済施設と無償で子供たちを教える施設の設置・運営、貧しいひとたちへの炊き出し事業などを進言してきた。わたしはそのいくつかを実施し、たいへん功績を上げることができたが、すべて蓮村がわたしに知恵をつけてくれたことなのである。

わたしの郷里の先輩であった楽魚と、無錫の蓮村。

皆規行矩歩、不苟言笑。其楽善亦同出一轍。

みな行を規し歩を矩し、かりそめに言笑せず。その善を楽しむこともまた同じく一轍に出づ。

どちらも行くときはまっすぐ歩き、歩幅を一定にし、意味もなくしゃべったり笑ったりしなかった。その善を行うことを楽しむ様子もまた、二人ともたいへんよく似ていた。

「一轍に出る」というのは、後からいく車のわだちが以前に通った車のわだちに重なって行くように、二つのものの軌跡がたいへんよく似ていることをいう。決して「明子と飛雄馬」のことではない。

惜しいことに、二人はお互いのことを全く知らずに終わってしまった。もしお互いを知り合っていたら、莫逆の友となったであろう。

楽魚が没してから既に久しい。

今年(同治十三年(1874))になって、わたしの後任で無錫に赴任していた厳太守から、蓮村が亡くなったと聞いた。

太守が言うには、

「無錫の人民どもは、蓮村は死んで、すでに道教の真人の位についているらしい、と噂しておりますよ」

とのことである。

わたしは答えて言うた、

「洋人どもの教えの中に天堂(父神の主宰する天国)という場があるそうな。

使天堂無、則已。有、則蓮村・楽魚二人者、必生天無疑矣。

天堂をして無からしめばすなわち已む。有りせばすなわち蓮村・楽魚の二人なる者は、必ず天に生ずるや疑い無きなり。

天堂など無い、というひとも多いゆえ、天堂が無いならそれだけのこと。もし天堂があるのであれば、蓮村と楽魚の二人は、必ずそこに生まれ変わって、幸福に暮らしていること疑いござらぬ」

と。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

以上。人の世には「勝ち・負け」以外の尺度もあるということです。陳其元「庸闕ヨ筆記」巻十二より。

 

表紙へ  次へ