今日は昨日の続きです。
大中年間の末、温庭筠が長安に舞い戻ってきたころ、たまたま進士の試験があり、庭筠もこれを受験した。
試験官であった沈侍郎(試験を掌る礼部の次官)は、名高い庭筠が受験していることを知って、試験官室のすぐ近くに庭筠の受験室(試験は個室で受けるのである)を設けさせることにした。
これは、若いころの庭筠が進士試験を受けた際、自分の回答がすぐできてしまったので他のひとの分も回答を作って、それを試験場で横流ししたことが明らかになり失格したという事件があったので、再びその轍を踏まぬよう注意していたのである。
庭筠は試験の最終日まではおとなしく答案を書いていた・・・ように見えた。しかし、最終日になって、
是日不楽、逼暮先請出、仍献啓千余言。詢之、已占授八人矣。
この日楽しまず、暮に逼りてまず出でんことを請い、仍りて千余言を献啓す。これに詢(と)うに、すでに八人に占授せり。
あまり楽しそうでない様子であり、夕方になったところで、他の受験者より先に試験場を出たいと言い出して、千余字をびっしりと書いた答案を提出した。そこで(、これだけびっしりと書いているのであるから、今回は特に他のひとの手助けをする暇は無かったであろう、と)質問してみると、果たして、すでに八人に答案を授けたというのである。
そういうことを隠すことができず、誇ってしまう性格なのだ。
そのことは、試験官の沈侍郎から、合否の案に添えて宰相にまで報告された。宰相は庭筠の行動をたいへん不愉快に思われたようであるが、試験結果を皇帝に報告するため宮殿内に入って行った。
時の皇帝は、晩唐において傑出した名君といわれた宣宗である。
宰相は、皇帝のもとを辞してくると、沈侍郎に詮議結果を伝えた。
「は? いや、わかりました、そのようにいたしまする」
沈侍郎は宰相の御前を引き下がって、試験結果を発表した。受験者の何人かは合格し何人かは落第したのであるが、庭筠については、特に保留とされて長安市中の宿舎に待機するように伝えられた。
数日後、宿舎にいた庭筠のもとに、風情賤しからぬ官吏風の男が訪ねてきて、自ら扶風の李某と名乗り、庭筠と文学上の議論をすることを求めた。
自分の学問に自信のある庭筠は最初から李某を見下した態度であったが、しばらく議論しているうちに、
公非司馬長史流乎。
公は司馬長史の流にあらざるか。
おまえさんは、警察署長さんか県庁の筆頭文官の流派ではないのかい。
とからかい、李が
非。
非なり。
そうではござらんよ。
と答えると、今度は、
得非文参簿尉之類。
文参簿尉の類にあらざるを得んや。
そうじゃない、というんなら、文章を起案したり帳簿を管理する小役人のたぐいでしかあるまいね。
と嘲笑した。
李は、従容と受け流しながら
非。
非なり。
そうでもござらんよ。
と答えて帰っていった。
はい。
この李某は、みなさんの予想どおり、宣宗皇帝・李忱の微行(皇帝であることを隠して少数の者と出かけること)姿でありました。
宣宗は、能力はあるが性格に問題があるという温庭筠について、その性格を自ら験しみるため、微行して訪れたのである。
翌日、待機中の庭筠に達しがあり、もちろん試験には不合格となった。
その後、その才能を惜しまれて国子助教(国立大学の次席教授)となったが、不適切な行動を批判されて職を追われ、
竟流落而死。
ついに流落して死す。
最後は落魄して地方に流浪して行き、いずことも知れぬ地で死んだ。
という。
さて。
そのころ、紀唐夫という者あり。
温庭筠のことを
鳳凰詔下雖霑命、 鳳凰詔下りて命を霑(うるお)すといえども、
鸚鵡才高却累身。 鸚鵡才高くして却って身に累す。
鳳凰のありがたい勅が下り、幸運を得られることになったというのに、
鸚鵡は才能が高すぎてかえってそのために自分の身をダメにしてしまった。
とうたいて名を馳せたのだそうである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
元・辛文房「唐才子伝」巻八より。
たくさん画を描いたので色をつけようと思ったのですが、今日のところは思っただけで終わり。