唐の世、成都の街。
乞児・厳七師(乞食の厳七先生)なるひとあり。陰気で醜く、垢の臭い甚だしくて近づくことができないほどで、
言語無度、往往応于未兆。
言語度無く、往々にして未兆に応ず。
その語ることは意味がわからないことが多かったが、よくいまだ兆しさえ現われない未来のことを言い当てていることがあった。
例えば。
厳七師は成都の西市にある救済施設である悲田院に暮らしていたのだが、近くに賤民である俳児(俳優。芸人)の干満川、白迦、葉珪、張美、張翺の五人が「火」を為し(劇団を構成し)て住んでいた。ある日、
七師遇于途、各与十五文、勤勤若相別為贈之意。
七師、途に遇いて、おのおの十五文を与え、勤勤として相別し為にこれを贈るの意の若し。
厳七師は道でたまたまこの五人に出会うと、自分のおもらいの中からそれぞれに十五文づつを与え、いかにも慇懃に、お別れをせねばならないので餞別としてこれを贈与するのだ、という気持ちを表わすのであった。
五人は別に旅立つつもりも無かったが、どうせ相手は○○ガイの乞食である。
「へへ、ありがたくいただいておくぜ」
と十五文づつのはした金、ありがたくいただいた。
数日後。
駐屯軍を監視する監軍院が宴を為し、干満川ら五人を呼んで出し物として演劇を行わせた。
干満川らはその報酬として、衣服と食糧を求めたのであるが、これを聞いて、少師(副院長)の李某というひと、
「俳優どもは、もともと公の祭りや宴会で演劇を見せるために官の養われ俸給をもらっている身分ではないか。その上に報酬を求めるとはどういう了見か」
と激怒し、
各杖十五、逓出界。
おのおの杖十五、界より逓出す。
それぞれに杖で打つこと十五の罰を与えた上、成都の行政界から追放してしまった。
ここに至ってひとびとは、厳七師が何を言おうとしていたのかがわかったのであった。
ちなみに厳七師は、この四五年の間、多くのひとびとが争って仏寺に財物を寄付し、お寺が華麗な建築物を建てるの見て、常々ひとに語って
寺、何足修。
寺、何ぞ修むるに足らん。
お寺など、建物を立派にする必要は無いのにのう。
と言っていた。
ご存知のとおり、今(武宗の会昌年間(841〜846))、廃仏の嵐が吹き、「折寺」(お寺の建物や仏像を破壊すること)が行われている。このことを早くから予知していたのであろう。
厳七師は、つい先ごろまでは成都の街に毎日のようにその姿を見せていたのであるが、だんだんと姿を見ることが稀になり、
今失所在。
今、所在を失えり。
今となってはどこにいるのかわからない。
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唐・段成式「酉陽雑俎」巻三より。
今日の話は退屈ですか、そうですか。それは残念ですね。
わたしは今日は大塩中斎の伝記を読んで、無茶苦茶おもしろいところがあったので、大笑いしてました。ひひひ。