↑表の人生、もうやっとれん。寝る。

 

平成20年10月28日(火)  表紙へ  昨日に戻る

漢の楊ツ(よう・うん)は字を子幼といい、武帝亡き後の漢朝を取り仕切った大将軍・霍光の腹心・楊敝の次子である。

ところで、史記を編んだ司馬遷さんですが、彼が友人の李陵を弁護して武帝の怒りに遇い、死罪か宮刑かを選ばざるを得なくなったとき、彼にはムスメしかおらず、「自分が死んだら父以来の我が司馬家の世業である史記の編纂がかなわなくなる。何としても生きてこの書を完成させねばならぬ」ので、宮刑の屈辱に甘んじた、というお話しは有名ですが、この司馬遷のムスメが楊敝の嫁になっておりまして、楊ツは司馬遷のムスメの子、すなわち司馬遷の外孫に当ります。

彼は幼いころ、この外祖父・遷の「史記」を読んでいたく影響を受けたという。

長じて諸儒・俊傑と交わり、また、相続した莫大な財産を旧知に分け与えて、「財を軽んじ義を好む」と称された。

一方、霍光亡きあとの霍氏に謀反の動きのあることを真っ先に知り、これを侍中の金安を通じて宣帝に知らせたため、霍氏が誅に服した後、その功を以て平通侯に封じられるなど、現実政治のどろどろの中でなかなか機敏な動きも見せていた。

しかしながらその後宣帝に疎んじられて、官を辞め蟄居することになる。

蟄居中も家の産業を興し(←当時の貴族は、大規模農業を営んでいたのです)、また貴顕と付き合うことを止めなかったので、友人の孫会宗というひとが「気をつけないといけませんぞ」と諫言した。

この孫会宗の心配に対し、楊ツは自分は先代以来の忠義の家であるから心配は無いであろうこと、また財産を取り上げられても自分は意に介さないこと、などを答え、加えてこんなことを言った。

・・・わしは蟄居して既に三年になる。

国家から給与がもらえないので、苦労して農園を営んでいる。収穫を得たときには、羊を煮、子羊を蒸し、濁酒をかもして、自分で自分を労わってやるのである。

そんな日には、

家本秦也。能為秦声。

家はもと秦なり。よく秦の声を為す。

わしはもともと秦の出身だから、秦の歌は上手いぞ。

婦趙女也。雅善皷瑟。

婦は趙の女なり。雅にして皷瑟(こ・しつ)を善くす。

わしのヨメは趙の出身だから、みやびやかで、鼓と琴を扱うのは上手いのだ。

奴婢歌者数人。

奴婢の歌者数人あり。

下僕・下女の中には歌うやつも何人かおる。

ので、

酒後耳熱、仰天捬缶而呼烏烏。

酒後、耳熱くして、天を仰ぎ缶(ふ)を捬(う)ちて、呼んで「烏烏」(う・う)たり。

酒を飲んだあと、耳たぶが熱くなって(気分よくなり)、天を仰ぎ、缶(お盆のようなもの。叩いて楽器にする)を叩き、「おお」と叫ぶ。

叫んで、歌を歌った。

その歌に曰く、

田彼南山、蕪穢不治。     彼の南山に田するも、蕪穢(ぶわい)を治めず。

種一頃豆、落而為萁。     一頃に豆を種うるも、落ちて萁(き)となる。

人生行楽耳、須富貴何時。  人生は行楽のみ、富貴を須つもいずれの時ぞや。

あの南山の麓に耕作しても、下草の繁ったところまでは手がつけらず、荒れたままになっておる。

一頃(百畝)の畑にマメを植えたが、収穫前に落ちてまめがらになってしまったぞ。

人生は楽しいことをするだけじゃ。努力をして富や地位を得たとて何になろう。

と。これは、注釈者によれば、

「南山」は陽の象徴であり君主を表し、「蕪穢」は繁り放題の場所をいい群臣の道義なきを批判する。また、「一頃」=百畝は「百官」の隠喩であり、善人だと思って百官(諸役人)として任命するのだが、いつの間にか堕落してマメガラのように曲りくねり役に立たない者になってしまう、という。だから自分はそのような場所と距離を置き、楽しみをこととしているのじゃ。

という宮廷を批判する歌なのだそうだ。

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「漢書」巻六十六・楊ツ伝より。

この歌は「楊ツ拊缶歌」といわれ、「古詩源」に採られているし、

人生は行楽のみ、富貴を須つもいずれの時ぞや。

の句はことに有名で、宋の蘇東坡や黄山谷が詩の中に使い、その後は常套句のように用いられるようになった。

みなさまも

「ようし、わたしもこの歌を作った楊ツのように生きるぞ」

という気になってきましたでしょう。

・・・ふ。ふふ。ふふふふ・・・ああっはっはっはっはっは。楊ツさまがこの後どうなったか、次の機会にお話いたしてもよろしいのですが、どういたしましょうかなあ・・・。

 

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