↑もの言わぬものの声きけ。

 

平成20年10月6日(月)  表紙へ  昨日に戻る

寧飲建業水、不食武昌魚。   むしろ建業の水を飲まんとも、武昌の魚を食らわず。

寧還建業死、不止武昌居。   むしろ建業に還りて死せんとも、武昌に止まりて居らず。

三国・呉の末帝・孫晧に仕えた陸凱は字・敬風、呉郡の呉のひとで丞相・陸遜の一族に当る。

末帝は部下の諫言を聞かなかったひとであり、群臣にその為すことにあえて忤らう者は皆無に近かったが、ただ陸凱のみは

夫君臣無不相識之道。

それ君臣に相識らざるの道無し。

ああ。君主と臣下の間に、お互いのことを知り尽くさないという行き方はございませぬ。

と言上して、多く諫言を為した。その中には聴かれたものもあれば聴かれなかったものもあるが、多く臣下に罰を賜った末帝も、終生、陸凱を害することだけはしなかったという。

三国志・本伝によれば、末帝が父祖以来の呉国の首都・建業を捨てて、長江を遡って武昌の地に遷都したとき、陸凱はその不可なるを縷々述べた。

・・・(前略)武昌の地は実に危険であります。王都を建設して国を安んじ民を養うの根拠地にはなりえず、また船舶は沈没・漂流するところであり、丘や山も急峻であります。また、

童謡言。

童謡に言う。

あやしき下層民どもの歌に、こういうております・・・。

と引用したのが、冒頭の歌である。

「童謡」

お子ちゃまのうた!

ではないのでありまして、チュウゴク古代、髪を切る、という罰を与えられた非常民である「童」たちが、天の意を受けて自然発生的に歌った歌、のことであります。また、「輿」を担ぐ下層職能民たちがあげつらった「意見」が「輿論」である。すなわち、普通でない者ども、知恵も無く魂も無く、ニンゲン扱いもされていない者どもが歌い論ずるのが「童謡」であり「輿論」である。

「童? 輿担ぎども? さような下衆、物を考えることさえできようはずがない。その彼らが、歌い論じ、まともな深い意見を言うのである。天が教えなければどうしてそんなことができようか」

ということから、「童謡」や「輿論」は「天の声」と考えられ、為政者もその言には従わざるを得ない、という権威を持つに至るのである。

・・・そうです。(白川静先生の言を整理するとそんなことになるのだと思います)

冒頭の童謡は、

水だけ飲むような暮らしでも、建業の町で暮らしたいのう。武昌の町で(豪華な食事である)魚を食うて暮らすよりも。

建業に帰って死にたいのう。武昌の町に止まって生きているよりも。

とうたっております。

臣聞、翼星為変、熒惑作妖。童謡之言生於天心。

臣聞く、翼星変を為し、熒惑妖を作し、童謡の言は天心に生ず、と。

「わたくし陸凱はこのように聞いております。翼星は変事を起こし、熒惑はあやかしを導き、童謡の言うことは天の意図を顕わす、と。」

翼星は二十八宿のひとつで「たすくぼし」じゃ。熒惑(けいわく)は火星のことじゃ。

「その童謡において、

以安居比死。足明天意、知民所苦也。

安んじて居るを以て死に比す。天意を明らめ、民の苦しむところを知るに足れり。

安らかに(武昌に)住むより(建業で)死んだ方がましだ、と歌われておるのです。十分に、天の意が何であるかを明確にし、人民どもが何故苦しんでいるのかを知ることができましょうぞ。」

・・・・・・・以上、三国志巻六十一・呉書・陸凱伝より。諫言を受けて末帝がどうしたか、はよくわかりませんが、陸凱は七十二まで生きたので、怒られてぶちゅっとコロされたわけでは無さそうです。

鹿児島のKT氏の言によれば遼寧に武昌魚という魚があるよし。今日はそれに触発された。

わしも、東京に居て魚食っててもしようがないので、むしろ××県○○市で水でも飲むことにしましたのじゃ。

ちなみに、この陸凱のお話しから、

武昌の魚を食らわず

というと、「いろいろ魅力のある新しい地へ移らず、故郷に止まること」をいうようになりましたのじゃ。

 

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