自然災害は恐ろしいことであります。
・・・道光二十年(1840)の冬から翌年の年明けにかけて、長江下流の江浙地方は大雪に見舞われた。平地でさえ四〜五尺(1メートル以上)の積雪があり、山間部では一丈(3メートル)を越え、湖も港も凍ってしまった。
このとき、次のような被害があったのである。
(その一)
山中に寺あり、四人の僧が住んでいた。そのうちの一人が麓の村で托鉢していて、帰ろうとしたところで大雪になり、
為雪阻于山
雪の山下の村中に阻むところとなり、雪消ゆるの比(ころ)、路通ず。
その雪のために山上のお寺に戻れなくなり、しかたなく麓の村にとどまって、春先になって雪が解けてから、ようやくお寺への道が通じた。
お寺に帰ってみたところ、
寺内之僧皆餓死矣。
寺内の僧、みな餓死せり。
寺に残っていた僧侶は、外へ出ることができず(托鉢もできなくなって)、みな飢え死にしていた。
(その二)
南京郊外にあって有名な太湖の真ん中で一艘の舟が冰に閉ざされ、動けなくなった。翌月になってようやく冰が解け、
船逐流下。
船、流れを逐いて下る。
船は、太湖からの流出口の方に漂流して来た。
地元のひとが無人の船だと思い、これを繋留しようとしたところ、
舟内之人已尽斃。而甕中米尚存其半。
舟内のひと、すでにことごとく斃る。而して甕中の米、なおその半を存す。
船の中のひとが、全員倒れ死んでいたのであった。ただ、船内の瓶には、まだ米が半分ぐらいは残っていた。
則以火種絶、不能炊而致死也。
すなわち火種絶するを以て、炊くあたわずして死を致すなり。
船内の火だねが無くなってしまって、火種をもらう術もなく、炊飯のできないままに凍え死んだものと思われた。
(その三)
隣村に嫁ぐ花嫁があり、夫の家からは新夫とその供が迎えに出、新婦の家ではこれを饗した後、嫁に見送りのひとがつき従って、合わせて数十人、ドラや太鼓を鳴らしながら、峠を越えて隣村へと向かった。・・・・
・・・そのまま、春になってしまった。
ようやく雪が解け、
男女両家遣人四処覓之。
男女両家、人を四処に遣りてこれを覓(もと)む。
新夫側・新婦側の両家、ようやくひとを出して彼らがどこに行ってしまったか、四方に探し求めた。
すると、
男女七十余人、皆餓斃廟中。
男女七十余人、みな廟中に餓えて斃る。
男女あわせて七十人あまり、迎えと見送りのひとびとはみな、道路脇の古いお堂の中で飢え死にしていた。
彼らはすなわち
途遇大雪、因相率入小路中古廟避之、雪甚、封山、迷不得出。
途に大雪に遇い、因りて相率いて小路中の古廟に入りてこれを避けんとし、雪甚だしくして山に封じられ、迷いて出ずるを得ざるなり。
途中で大雪に遇い、みなで小さな道のかたわらの古いお堂に入ってしばらく過ごそうとして、そのまま雪が積もって山中から出てこれなくなってしまったのであった。
これはわしの友人の陳春嘘が錦県の県令として、知らせを受けて検死に赴き、その惨憺たるありさまを実地に検分した事件である。
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なのじゃ。以上、清・陳其元「庸闕ヨ筆記」巻十より。冬にご紹介するとよかったのですがそのころまで覚えてないだろう、と思ったので今日ご紹介しました。