↓学問は大切じゃのう。ひひひひ。

 

平成20年11月11日(火)  表紙へ  昨日に戻る

火曜日になりました。週末まであと三日もある。ぎぎぎ。

そういえば先週の火曜日は胡敬斎先生の伝をご紹介していたのでした。

胡敬斎先生とともに、呉康斎先生に学んだひとに、婁一斎先生がある。

婁一斎先生は、名は諒、字は克貞、上饒のひと。少年のころから聖賢の学に志し、科挙の学に耽ることを潔しとせず、四方に師を求めていた。臨川に康斎先生のあるを知って、このひとの学問こそ

身心学也。

身心の学なり。

外には身を修め、内には心を治める学問である。

と思い、これに従学したのであった。

康斎は一見して見所のある男と見抜いたが、その豪邁に過ぎるのを危ぶんでいた。

一日、康斎治地、召先生。注視云、学者須親細務。

一日、康斎地を治むるに、先生を召す。注視して云う、学者すべからく細務に親しむべし。

ある日、康斎先生は自ら畑を耕しながら、弟子の一斎を呼び出した。一斎がやってくると、彼をじいっと見つめながら、

「学問をする者は、必ず、(耕作のように)こまごましたことを自分自身でやってみなければならん。」

と言うた。

一斎はこの言葉に打たれるところあり、

由此折節、雖掃除之事、必躬自為之、不責僮僕。

これより折節に、掃除のことといえども、必ず躬自らこれを為し、僮僕を責めずなりき。

これ以降は、どんなときにも、掃除のようなことでも必ず自分で自らやるようになり、下僕どもにやらせることはなくなった。

のであるという。

呉康斎先生は厳しいが、また、ヘンクツなところもある先生であった。あるとき、若くして名のあった羅一峯という学者が康斎を一見せんと訪ねてきたのであったが、康斎は

我那得工夫、見此小後生耶。

我、なんの工夫を得て、この小後生に見(あ)わんや。

わしがどういう修行をしたからといって、あのおエラいお若い方にお会いすることができようか。

とひねくれて会わなかったことがあった。これにより羅一峯も不貞腐れて、この二人の仲が修復不可能であろうと言われるようになったとき、双方と顔見知りの一斎は、

君子小人不容並立。

君子と小人は並立すべからず。

立派な君子と、怪しからん小人とは、仲良くすることができない、といいます。

「されば、後世のひとが呉康斎先生を小人だ、と評するならば、一峯さんはよろしい。しかし、後人が康斎先生は君子だ、とするならば、一峯さんはどうするつもりなのですか」

と問うた。

すると一峯は、

「康斎先生が小人のはずが無いではないか」

と言うて頭を掻いて、自ら折れた、ということである。

景泰四年(1453)、郷里に帰り、読書すること十余年、天順八年(1464)に進士となり、成都の教授に赴いたが、よほどに官界に辟易したらしく、この一官に就いたのみですぐに官を辞して帰り、以後は著書と後学の指導に従った。亡くなったのは弘治四年(1491)、年七十であったという。

胡敬斎は、同じ呉康斎の門下生の中で、尊敬に値するのは陳石斎さんと婁一斎さんのお二人じゃ、と言うている。また、次のようなエピソードを伝えている。

・・・・・・克貞(一斎の字)は、路上で木を背負って運んでいるひとが巧く運んでいるのを見ると、彼に向かって

「なるほど、これが道ですか」

と確認したものである。

此与運水搬柴相似。指知覚運動為性。

これ、水を運び柴を搬(はこ)ぶのことと相似たり。知覚・運動を指して性と為す。

これは、禅宗の教えで、「水を運び柴を背負う、その中に真理がある」というのとよく似ている。知覚とか運動を人間の本性だ、とする考えなのである。

確かに、道というものはあらゆるところに具わっているものだ。義理に合して私の心が無い行動ならば、それこそ道である、というべきであろう。木を背負って運んでいるひとは、道を知っているというわけではないのだ。ただ、その方法が義と理に合しており、しかもそのひとが私の慮りなく木を背負っているのなら、道ではない、とは言えないだけであって、そのひとの行動に道を見ることはできるが、そのひとに「これが道か」と訊ねたところで答えられるはずがないであろう。・・・・・・・・

一斎先生の子は冰渓先生といい、「書楼を下らざること十年」と言われて、勉学に打ち込んだひとであった。冰渓に学ぶひとはあまりに多く、学舎に入りきらなかったため、

其弟子有架木為巣而読書者。

その弟子、木に架して巣と為し読書する者有り。

その弟子の中には、立ち木の枝に材を渡して居場所を造り、そこで書物を読んでいるものまでいる始末であった。

という。

婁先生父子は弟子も著書も多かった。しかし、その著書が今(明の末〜清の初め)まったく伝わらないのは、先生の死後、一族が反乱に加わって族滅(一族みんな死刑になる刑罰)になったため、著書を管理する者が絶え果てたからである。

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以上、「明儒学案」巻二より。ああ、なむなむ。

ところで、あまり知られていないことですが、後に陽明学なる学派を構築する陽明先生・王守仁は、十七歳の時、婁一斎先生のところに入門しているのだそうで、陽明学の最初の口火は、この婁一斎先生の学問にあった、とも言われるのだそうである。

 

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