五胡十六国の一つに苻氏の「秦」という国があります。その後を襲ってできた姚氏の「秦」や青海高原方面に立てられた乞伏氏の「秦」と区別するために、苻秦を「前秦」、姚秦を「後秦」、乞伏秦を「西秦」と呼びますが、この前秦は、四世紀の中ごろに華北の地をほぼ統一し、江南の東晋に攻め込んだこともある強国でした。しかし、淝水の会戦で東晋の精鋭に完敗し、これを契機に配下の諸民族が離反して、あっという間に滅んでしまった・・・のですが・・・。
その前秦の全盛期、都・長安でのふしぎな事件。
皇帝の苻堅は宰相の王猛、大臣の苻融の二人と、宮中の甘露堂にて密議をこらしていた。
議事の内容は、江南への侵攻という国策を定めるとともに、民心を一新するために大赦令を出すか否か、ということであった。機密が洩れないよう、帝は
悉屏左右。
悉く左右を屏(しりぞ)く。
近侍の者たちをみな周囲から退けていた。
そして、帝自ら筆を執って、議論の結果をメモにする、という厳重さである。
真夏のこと、ぶうん、と
有一大蒼蠅集於筆端。
一大蒼蠅の筆端に集まるあり。
大きなアオバエが一匹、飛んできて、帝の手にした筆の先に止まった。
近侍の者がいないので、帝は自らその蠅を追う。蠅は宰相・王猛の頭のまわりを二三周し、また追い払われた。
「江南を討つならば、今年の冬しかあるまい・・・」
「さようでござる。されば、兵を集めるのはこの秋の収穫の後といたすべく・・・」
「各部族への檄文の発出は秋のはじめがよろしいかと・・・」
「江南討伐に向けて民心を一つにするには、大赦はせざるを得ませぬぞ」
「それならば、時は早ければ早いほどよきか、と存知まする」
「ならば・・・明日発表することにしようぞ」
「御意」
「御意」
帝は、二人の返事を確認すると、筆に墨を含ませて、大赦を令するの文を書き始めた。苻融の冠に止まっていたらしいアオバエがまた飛び回りはじめ、王猛に払われて、開け放たれていた窓から外に出て行った。
その後、四半時。約五十字。帝の手元に、短いが、意を致し心を尽くして人民に教え諭すの名文ができあがった。
「赦文はこれでよかろう」
「御意」
「お見事にござる」
「では・・・」
帝は手を打って、近侍の臣を呼んだ。
「おい、誰かある。この文を清書せしめて告諭せよ・・・」
と言うところへ、筆頭宦官が畏まって現れ、
「承ってそうろう」
と赦文を受け取って、そのまま若い宦官に引き継ぐ。若い宦官はすぐさま中書の掛官にこれを伝達に下がった。
「ところで、帝・・・」
筆頭宦官、言上して言う、
「ただいま、首都を所轄する長安令が、急ぎご報告したきことあり、とて参上しておられます」
「なんじゃ? ・・・よい、通せ。ちょうど王猛と苻融もおるゆえ、急ぎのことなら二人にも聞かせたい」
「はは、では」
筆頭宦官の案内で初老の実直な長安令が入室し、帝の前に跪いた。
「ご言上申し上げる。さきほど、
俄而長安街巷人相告、曰、官今大赦。
俄にして長安街巷人相告げて、曰く、「官、今、大赦あらん」と。
突然、長安の街の人民どもが騒ぎ出し、お互いに「政府がまもなく大赦令を出すらしい」と噂しはじめたのでございます。」
「なんじゃと?」
帝は茫然として自失の体。
「そのこと、
禁中無耳属之理、事何従泄也。
禁中に耳属の理なし、事何に従いて泄(も)れたるか。
宮廷の中でも誰かの耳に入る、ということは無かったはずじゃ。一体、何ものがそのことを世間に洩らしたのか」
長安令、いよいよ畏まって言う、
有小人衣青、大呼於市、且言今大赦。
小人の衣青きがありて、市に大呼して、かつ言う、「今大赦あらん」と。
小さいニンゲンが現れたのでございます。この者、青き衣を着て、市場の地域で大声で叫び、なにごとかとひとびとが集まると、「間もなく大赦令が出るぞよ」と告げたのでございます。
「さらにこの者、ひとびとに、「秋には軍を興すの議があるであろう、今度の相手は・・・」」
と、そこまで言い差して、長安令は帝と宰相・大臣の三人がみな瞠目しているのに気づき、さすがに事の重大なるを察して言葉を切った。
が、帝は
「よい。言え」
と命じた。
長安令、声震わせながら続きを言うた。
「その者、言うに、「今度の相手は、江南じゃ」と。」
むう・・・。帝らは声にもならず呻いた。
長安令言う、
須臾不見。
須臾にして見えず。
その小さき者、それだけ言うと、あっという間にその場から見えなくなってしまったとのことでございます。
「ああ、先ほどの蒼蠅でござる! あれしかおりませぬ!」
王猛が突然、そう言うた。
苻融は頷くだけで、帝は顔をこわばらせたまましばし動けなかった、という。
・・・既に事務執行に移った大赦については、次の日、予定どおり行われたのであった。
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はいはい。一般に、政権中枢など「かしこきところ」での秘密事項は、どこからともなく洩れて民間の噂になってしまうもの、でしてな。みなさまも会社の人事とか重大決定について、取締役会が決める前に、ペーペーどもの噂話になったりしている、という形でご認識されたこともございましょう。このお話しが元になって、そのような「お偉方が決める前に広がっているしもじもの噂」のことを「蒼蠅の令」=「アオバエからのお達し」と言ったりするのでございますよ。
「だからなんだ?」というひともおりましょう。しかしそのようなひとには「うるせえ。」としか答えようがございません。古典にそう書いてあるのですからな。わしはそれをご紹介しただけなのだ。文句は元ネタを書いたひとに言うてください。このお話は「廣古今五行記」から引いてきました。同書は唐の時代のひとが、古今の怪異(それらは、木・火・土・金・水の五行の精妙なはたらきとして説明された)を広く集め記録したものですが、撰者の名は既に伝わらぬ。ので、文句があるひとは「名無し殿」に言うてくださいね。