聳え立つ「恩愛関」の前で、わたしはその厳重に閉じられた門扉をしばし茫然と見上げていた。(←何故そんなところにいるか、については、11月10日の日録を参照されたい)
わし一人ではない。色欲関を通り抜けてきた求道者たち(タオを求める者たち)が何人も集まってきて、関門を見上げていたのである。
傍らにはいつの間にか悟元道士・劉一明が払子を手にして立っておられた。
「師よ」
とわしは呼びかけ、
「この関門は厳重に閉じられております。如何にして通り抜けることができましょうか」
と問うた。
道士曰く、
「ほう。そんなに厳重に閉じられておるかのう・・・
人生在世、万般皆仮、惟有性命是真。挙世之人、認仮為真、将性命二字置于度外。
人生まれて世に在る、万般みな仮なり、これ性命のみこれ真なる有り。挙世のひと、仮を認めて真となし、性命の二字を将って度外に置けり。
ニンゲンが生きてこの世にある間、まわりのものはすべてこれ「仮」(虚構)のものである。ただ、自分を自分としてあらしめる性(本性)と命(天命)のみが、真実なのだ。ところが世の中のひとは、虚構を真実と認識してしまい、本性と天命を考えの外に置いてしまっている。
なんとも愚かなことではないか」
「は、はあ・・・」
「愚かなことの証拠には、ひとびとは、本性でも天命でもない「恩愛」に引っ張られて、衣類と食糧のために奔走し、その身を疲れさせ、昼夜あわただしく、千のはかりごとと百の計画を以て人を損ない己に利し、貪り企てて止むときがない。
水火刀兵之処也去、虎狼烟瘴之処也去、生死不顧、存亡不管、碌々一生、無有休歇、為子孫作長久計。
水火・刀兵の処もまた去き、虎狼・烟瘴の処もまた去き、生死顧ず、存亡管せず、碌々として一生、休歇あること無きは、子孫のために長久の計を作すなり。
水の中、火の中、あるいは刀剣やその他の兵器の交わるところにも、トラやオオカミが出没するところ、毒を含んだ靄やガスの噴き出すところまで、自分の生死をも無視し、存続できるかどうかにも関わらず、こつこつと一生の間、休みも止めてしまうことも無く活動を続けるのは何のためじゃ。子孫のために長く久しき財産を積もう、としてではないか。」
「ああ」
わしはため息をついた。
わしには愛する妻があり、妻との間にかわいい子どもがいます。わしを信頼する妻や頑是無い子どもたちの姿を見ていると
「がんばらねば」
と思い、毎朝会社に行くのである。そして、行方不明になることもなく、虚しき仕事を続けるのである。
でも、家に帰ると女房・子供に会えるからがんばるのだ。責任感といいますか、彼らがわしを必要としてくれる、それがうれしくてたまらん、といいますか、この程度の苦労で感謝してくれるならどんだけでも苦労したい、そんな思いである。
やがて、子供は成長する。ひねくれたことも言いやがる。背伸びしたことも言いやがる。腹が立つこともある。しかし、やがて、孫が生まれる。これは何ともまたかわいいものである。どうしてやればいいのだろう。彼らのために、どんな世界を用意してやればいいのだろう。彼らが苦しんだり困ったりしないような、そんな世界にしてやりたいものである。・・・・・・
と孫の顔を思い出して涙ぐんでいた時、突然
ぱん
と耳の側で音が鳴った。
悟元道士が手を拍ったのであった。道士言う、
「おまえたち、いかにいとしい子や孫、いかに信頼する妻や恋人だとて、三寸の気の絶えんとするとき(死ぬとき、の意)、お前の苦しみやお前の寂しさに成り代わってくれるであろうか。彼らはお前ではない、のだぞ」
と。
途端に気づいた。
「そういえば、わしにはヨメも子もおりませんのでした」
先ほどまで見ていた子や孫は、すべてわしの心の中から湧き出た幻だと知れた。
すると、ああ、なんという不思議のことか、
ぎ・・・ぎ・・・ぎ・・・
あの厳重に閉ざされていた「恩愛関」の門扉が少し開きはじめたのである。
「さあ、門扉の隙間が見えはじめた者には今少しじゃ。よく考えて見るがよい、お前が生きていることは真実じゃが、恩と愛とは「仮」である。虚構である。
自然不在泥灘上着脚、火坑中安身。
自然に泥灘上に在りて脚を着け、火坑中に身を安んずるにはあらざるなり。
ありのままで、(恩愛という)泥沼の上に足を置き、(世間という)火の燃えている穴の中にじっとしている、というわけではないのだ。
お前はそこから逃げ出すことができるのじゃぞ。お前の心持一つで、大解大脱、無拘無束、物来たれば順応するの境地に至ることもできるのだ。」
「な、なるほど」
「普通に家族と暮らしている者にも、方法はある。
蓋悟的恩愛是苦、即能逢場作戯、自由自専、不受恩愛之害矣。
けだし、悟的には恩愛これ苦、即ちよく逢場に戯を作し、自由自専にして恩愛の害を受けざるかな。
結局のところ、わかってしまった側から見れば、恩愛のことはすべて苦しみなのである。舞台の上で演劇をするようなつもりで、自分勝手にモノゴトを進めることができるなら、恩愛の苦しみという害を受けないですむであろう。
父は父、子は子、兄は兄、弟は弟、夫は夫、婦は婦のあるべき姿を演じればいいだけじゃ。心の中でこれは芝居だ、と認識していれば、あれもこれもすべて成し遂げたも同然である」
「そうであったか」
わしが頷くと・・・。おお。見よ。
ぎ・・・ぎ・・・ぎ・・・
門扉の開きがどんどん大きくなってきたのだ。
悟元道士、振り向いて童子に向かって
「おい、そろそろ鳴らせ」
と指示すれば、童子
「あい」
と答えて、ドラを鳴らす。
じゃーん、じゃーん、じゃーん・・・
「ああ聴くがよい。道を求むるものは、すなわち
恩愛必須一刀両断、脱却縄索、絶不可有一毫沾染牽掛。
恩愛必ず一刀をもちいて両断すべく、縄索を脱却すべく、一毫も沾染し牽掛するあるは絶して不可なり。
恩愛を必ず一刀両断にして、その縄を抜けてしまわねばならぬ。ほんのわずかも恩愛に濡れ染まり、あるいは牽かれ引っかかるところがあっては絶対ならぬのじゃ。
じゃーん、じゃーん、じゃーん・・・
吾勧真心学道者、速将恩愛関口打通、無牽無掛、脱脱洒洒、一心学道、自有進業。否則、恩愛捨不的、常掛心胸、妄想明道難矣。
われ、真心に道を学ぶ者に勧む、速やかにまさに恩愛関口を打通し、牽く無く、掛かる無く、脱脱洒洒、一心に道を学べば、自ずから業を進むるあらん。否ならば恩愛捨てられず、常に心胸に掛り、妄想して道を明らかにすること難いかな。
わしは、真実にタオを学ぼうとする者に勧める。速やかにこの恩愛関を通り抜けよ。引っ張られることも引っかかることもなく、抜け出すように、またさっぱりと洗い流すように、通り抜けることだ。そして一心にタオを学べば、どんどん学問は進んでいくことであろう。そうでなければ、この恩愛の泥沼から抜け出せぬぞ。それは常に心に引っかかり、虚構の世界にさまよってタオを明らかにすることは困難じゃ。
じゃーん、じゃーん、じゃーん・・・
ドラの音に促がされるようにわしは半ば開いた「恩愛関」の門扉の間を通り抜けた。
思うにわしはこの関門は他のひとより通り抜けやすいかったようである。それでもハラはつかえ、手足をすりむいたのであるが、現世に妻・子無く孫も生まれない者は、かなり通り抜けやすいである。その証拠に見よ。色欲関を抜けてきた豪傑たち、わしより数等も優れているはすの者たちが、この恩愛関を通り抜けることができず、というより、門扉が半ば開いていることにも気づかず、「わいわい」と騒いだままでいるのを。
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悟元道士・劉一明「通関文」より。これが第三回。ちなみに、わしが勝手に作っているのではないので、肝冷斎は家族無いからこういう浮ついたこと言うのだ、とか、わしに文句言わないでくださいね。
・・・恩愛関を通り抜けると、もうずいぶんひとは疎らになってきたような気がする。あと48も関門がある、などとは信じられぬぐらいである。
「後はもう大したことは無いのではなかろうか・・・」
と思いながら歩いていると・・・
おお。見なされ。かしこに黒々と聳え立つ次の関門がある。正面の額には「栄貴関」と書かれているようでありますぞ。