もう切れた。やっとられん。
・・・といつものごとくぶつぶつ言っておりますと、
「それはいかんぞ」
と怒られました。
「うるせえ!」
と言い返そうと思いつつ、誰に怒られたのかと声の聞こえた方をよくよく見ると、そこにおられたのは湖西聖人と称された中江藤樹先生(1608〜48)であった。
これはまずい。
儀を正して、
「藤樹先生でいらっしゃいましたか。どうもお見苦しいところをお見せもうしあげてしまいましたが、「切れた」とか「やっとられん」などというたのはいわば言葉のアヤ。どうかお聞き逃しくだされませ」
と頭を下げますと、元来ひとを疑うということをなされぬ先生である、にこりとお笑いになられ、
「そうであればよいのであるが・・・。キレそうになったりしたら「堪忍」「忍耐」の「忍」の字をようく思い浮かべるがよいぞ。
這字従刃従心。以羞悪之心為裁割人欲之利刀。
この字、刃に従い心に従う。羞悪の心を以て人欲を裁割するの利刀と為すなり。
この字は、「刃」と「心」から成っておる。悪事を恥ずかしいと思い、悪む心を用いて、ニンゲンとしての各種の欲望を斬りおとす研ぎ澄まされた刀とする、という意であるのだ。」
「なるほどにございます」
能用此忍、則四方八面来之心、名利之妖魔、情欲之盗賊、無一不断尽者。故曰、忍字衆妙之門。
よく此の忍を用うれば、すなわち四方八面来の心、名利の妖魔、情欲の盗賊、一も断じ尽くさざるもの無し。故に曰く、「忍」字は衆妙の門なり、と。
この「忍」の刀をうまく用いることができれば、四方・八面あちこちに放散してしまう心、名誉や利益という妖魔ども、感情や欲望という盗賊どもなど、一つも残さず斬り尽くしてしまうことができるであろう。だから、「忍」の字はあらゆるよきことへの入り口じゃ、と言われるのじゃ。
「ははーにござります」
ということで今日のところはガマンして、明日も会社に行くこととしました。それにしても藤樹先生が亡くなった年齢よりもはや○年も長生きしてしまったのだなあ・・・。(「忍字論」)