元末の張仲挙は至正年間(1341〜68)の初め、地方の学校で訓導をしていた。
あるとき、中央から派遣されてきた監察御史がその学校を視察にお見えになった。学校側では、一通り学校内を見回っていただいたあと、お昼過ぎで小腹の空いた時間となったので、校長である学官の部屋で軽い食事を差し上げることとなった。
訓導である張仲挙は同僚らとともに隣室に控えていた。
御史の前に点心の膳が供えられた。御史は視察を終えて興が乗ったのか、目の前にいる学官に対して、
豸冠点饌。
豸冠に饌を点ず。
と対聯のお題を口にした。
「豸冠」(ち・かん)とは、「獬豸冠」(かいち・かん)のことである。
「後漢書・輿服志」にいう、
法冠或謂之獬豸冠。獬豸、神羊能別曲直、故以為冠。
法冠あるいはこれを「獬豸冠」と謂う。獬豸は神羊のよく曲直を別するものなり、故に以て冠と為す。
法官がかぶる冠は、「獬豸の冠」ともいわれる。「獬豸」というのは、(伝説によれば一角の)神聖なる羊であって、これは正義と不正義を見分ける能力があるというのである。このため、裁判を行う法官の冠は、その「獬豸」の角に似せて作ったのである。
御史も官吏の不正を糾弾する役割を持っており、不正を見抜く「解豸」の冠をかぶっていてもおかしくない。ということで、「豸冠」というのは御史が自分自身のことを指して言っているのである。
解豸の冠(をかぶったわし)の前に食事が供えられた。
というのがお題で、これに対応する一行、すなわち「対聯」を考えよ、というのである。
学官が答えられずにまごまごしている間に、隣の部屋から、仲挙が、点心に肉のスープが出されていたのに引っ掛けて、
驢肉作羹。
驢肉を羹(こう)に作(な)す。
(おまえさんのような)驢馬の肉がスープになっている。
と答え、しかも大笑いした。
これはからかいの言葉になるらしい。
「ロバ」は愚か者の譬喩。御史は「豸」の冠をかぶっているがどうせコネでお偉くなられただけの「ロバ」のようなお方でございましょう。そのうち処罰を受けて、スープの出汁になってしまわれるのではございませんかなあ。
という意味を含めたのである。
御史もそのように解して大いに怒り、その場で仲挙を捕縛せんとした。
仲挙は、大笑いしたままその場より姿をくらまし、夜の間に県境を出て、やがて楊州に出奔してしまったのであった。・・・・・・
・・・・・当時楊州は文化の都として最盛期であり、多くの文人才子が集まる街だった。張仲挙は彼らのサロンに出入りしているうちに、たちまち頭角を顕わし、当意即妙の知恵の回りと広聞にして博識の才により、江南一帯に名声鳴り響いたのであった。
その仲挙だが、手足が長く、歩くときに一方の肩だけを竦ませるというクセがあった。
ある文士、その姿を指して、
仲挙病鶴形也。
仲挙は病鶴の形なり。
ははは、仲挙のやつは、後ろから見てみると病気の鶴のようでござらぬか。
これでは出世はしないであろう。先が知れているな。
と嗤ったのである。
しかし、同じ座にいた相士(人相見)の老人が、その語を遮って、曰く、
不然。此雨淋鶴形。雨霽則沖霄矣。
しからず。此れ、雨淋鶴の形なり。雨霽(は)るればすなわち霄(そら)に沖せん。
そうではござらぬ。あれは「病気」ではなく「雨に濡れた」鶴の形じゃ。雨が晴れ上がれば、あっという間に大空に舞い上がっていきなさろう。
その言葉どおり、後に機会を得て大都(元の首都。現在のペキン)に行くと、あっという間に大臣の地位にまで昇り詰めたのであった。
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明・瞿佑(く・ゆう)「帰田詩話」より。これより「雨淋鶴」とは、見栄えはよくないが時を得れば出世するであろうひとのことをいうようになったのですよ。土曜日は心のどかである。今日はもう暗くなってから鎌倉まで行ってみた。ちょっとコワかった。