12月8日に財利関を通過したわたくし。
多くのひとのつまづきの石である財利関を首尾よく越えて、わたくしは鼻高々でした。
しかし、次の関門に向かって暗い山道を歩いているうちに、段々と憤りの心が湧いてまいった。
財利関をやすやすと越えるほどのわたしが、こんな暗い山道をとぼとぼと歩かねばならず、財利関さえ越えられなかったやつらは関門脇のお堂でぬくぬくと眠っていてもよい、というのはどういうことか。わしの能力に比してわしはあまりに報われていないのではないか。
そうこうするうちに回りは段々と寒くなってきた。おまけにわしは腹が減ってきた。
どういうことだ。わしほどの人間が、どうしてこんなつらい目に会わされねばならんのか。ああそれにしても腹が減った。さっきの財利関で眠ってしまえばよかったなあ・・・
と思っていると、目の前に関門が現れた。
これはみすぼらしい関門である。大体において小さい。扉は固く閉ざされているようであるが、扉のあちこちには割れ目があり、力を加えたら壊せるかも知れん。また、小さいので、もしかしたら屋根を乗り越えられるかも知れない、とも思ったが、扉の板は腐ってぬるぬるしていて触ると痒くなりそうであるし、屋根につかまると屋根(瓦葺きでさえない)の茅とともにずり落ちてきそうである。
門額には「窮困関」とあった。
さて、どうやって関門を通り抜けようか、と思案しているうちに、寒くて腹が減ってきてかなわなくなった。
やはり、さっきの財利関まで戻ろうか。あのあたりなら暖かかったし、食べ物もあったような気がする・・・
と思っていると、しゅ、しゅ、と払子を打ち振る音がして、いつの間にか悟元道士・劉一明が関門の扉の側に立っていた。(以下、「通関文」による)
道士、言う。
むかし、紫陽山人曰く、
貧子衣中珠、本自円明好、不会自尋求、却数他人宝。
貧子衣中の珠、もと自ずから円明にして好けれども、自ら尋求するを会せず、却って他人の宝を数う。
(法華経にある有名な譬え話で、長者が息子の衣の中に珠を秘めてやったのに、旅に出た息子はその珠の存在に気づかず、自分は貧しいと誤解したままであるように)貧乏なひとの衣の中には、実は宝珠があって、本来おのずとまるまるとして明るく素晴らしいのであるが、どういうわけだろうか、ひとは自らの持つ宝ものを探すことを理解せず、却って他人の持つ宝ものを数えて羨ましがっているとはのう。
と。
この世の宝玉に魅力を感じるような者は、まことの命を尋ねる旅には似つかわしくないのだ。
逆にいえば、飢えや寒さに遭遇して暖かく豊かな生活に憧れ、あるいは艱難に出会って不満を抱くのは、
飢渇之害為心害也。
飢渇の害、心の害と為すなり。
飢えや渇きの害が、心の害になってしまっているのだ。
おまえたちは、そのような「小さなこと」にかかずらわっていて、どうするのか。
殊不知性命事大、衣食事小。重衣食而軽性命、如何修的性命。夫図衣食者、僅可養皮肉。修性命者、却能保天真。天真若失、雖身体肥壮、如豕如牛、外人形而内獣心、即生如死。
ことに知らず性命のことは大、衣食のことは小なるを。衣食を重んじて性命を軽んずれば、如何ぞ性命を修的せんや。それ衣食を図るものはわずかに皮肉を養うべきのみ。性命を修むるものは却ってよく天真を保つ。天真もし失わば、身体肥壮と雖も、豕の如く牛の如く、外は人の形にして内は獣の心、即ち生きるも死ねるが如し。
まったく、ほんとうの命のことは大問題であるが、着るものや食べるもののことは小さな問題であることがわかっておらんのだ。着るものや食べるもののことを大切にしてほんとうの命のことを軽視するようでは、どうやってほんとうの命を修得することができようか。着るものや食べるもののことを考えたとしても、単に皮と肉を養うことができるだけなのだ。ほんとうの命を修得するものの方が却って天真の元気を保つことができる。天真の元気が失われてしまった者は、体が肥り大きくなっても、ブタあるいはウシのようなもので、外面はニンゲンだが内面がケモノである。
ぶぶぶー。わしは不平を鳴らした。牛はともかくブタと一緒にされてはたまらん、ぶぶぶー。
ここで回りを見ると、わしの後からこの窮困関に到着していたほかの修道者たちもみな、「ぶぶぶー」と不平を鳴らしていた。
わしらが憤懣やるかたなさそうなのを見て、劉道士は払子を左と右に、しゅ、しゅ、と振り、傍らの童子に向かって
「おい、鳴らせ」
と言うた。
「あい、わかりまちた」
童子、ドラを叩いて、ここからが説法のヤマ場である、と報せるのである。
じゃーん、じゃーん、じゃーん・・・
吾勧真心学道者、速将窮困関口打通。心如鉄石、意若寒灰、随縁度日、餓也如此、凍也如此、即凍餓身死也是如此、絶不以窮困小事忘却性命大事。
われは勧む、真心の学道者よ、速やかに窮困関口を打通せよ。心は鉄石の如く、意は寒灰の如く、縁に随いて日を度(わた)り、餓えやかくの如し、凍えやかくの如し、即ち凍え餓えて身死するもまたこれ、かくの如きも、絶して小事に窮困せるを以て性命の大事を忘却せざれ。
わしはおまえたち本心からタオのことを学ぼうとする者に、速やかにこの「窮困関」の関門を通り抜けてしまえ、と勧めよう。心を鉄や石のように強くもて、意識は冷え切った灰のように欲望に躍らされるな。かつておまえたちが行った行為によって与えられた結果に従って毎日を暮らしていくがいい。その中で、餓えはこれほどになり、凍えもこれほどになり、ついに凍えと餓えで物理的に死んでしまうほどになったとしても、絶対に(衣食のような)小さなことに窮乏したことを理由に、ほんとうの命という大切なことを忘れてしまうようなことになってはならんのだ。
窮困の中での一心一意こそ、豊かな中での同じ修行より、遥かにおまえたちにとって役に立つのである。
信じるがよい、大いなる力を有するタオそのものや先達の諸道士たちは、おまえたちの心を鍛えるために苦しめることはあっても、
決不教凍餓真正学人。
決して真正の学人を凍餓せしめざるなり。
絶対、おまえたちがほんとうに学ぼうとする限り、凍えや餓えを感じさせるようなことはないのだ。
ということを。ただし、
否則豊衣足食、自自在在、作事受不的一些苦難、当不的一些貧淡、妄想明道難矣。
否なれば豊衣にして食に足り、自々在々、事を作して、一些の苦難も受けず、一些の貧淡も当らざるも、妄想して道を明かにすることは難いかな。
ほんとうに学ぼうという気持ちが無いのであれば、衣は豊かにあり、食べ物に不足もせず、自分の思い通りに、何かを為して、何の苦しみや困難も受けることなく、少しの貧乏や淡白な生活を送ることがなくても、妄想に陥ってしまい、タオのことを明かに知ることはできないであろう。
ここまで言うて、しゅ、しゅ、とまた、道士は払子を左右に振った。
そういわれてみると腹が何となく膨らんできたような気がし、寒さもやわらいできたような気がしてきまして、わしらは扉のぬるぬるに手をかけ、
「ええい」
と押すと、めりめりと音を立てて扉は向こう側に倒れ、窮困関はその門を開いた。
「よっしゃー! 貧乏に負けていられるものか!」
わしらは意気揚々と、関門を通り抜けたのであった。(・・・来週へ続く)