↓何がエラいのかよくわからん、というひとがほとんどでがんしょ。

 

平成20年12月16日(火)  表紙へ  昨日に戻る

呉康斎先生の弟子のうち、胡敬斎の学統を継いだ余」斎のことは先週(12月9日)話した。今日は婁一斎に学んだ者について述べよう。

@夏尚樸

字は敦夫、東巌先生と号す。江西・永豊のひとである。

婁一斎のもとで学んだ後、正徳辛未年(1511)の進士、地方官を経て南京・太僕少卿となるが、先週も触れた劉瑾一派の専横に嫌気がさして辞官し帰郷した。

このとき、陽明・王守仁

舎瑟春風。

瑟を春風に舎(お)く。

おおごとを春風の中に置き放しにしてしまうようなものだ。

と、東巌先生のことを「おおごと」に比し、官を辞した後、本人は悠々と楽しむだけであろうが、おおごとにも比すべき人物に引き込まれて困るのは天下国家の方である、と評したという。

先生は陽明と違って「心」と「理」は別物だと考えていた。

心所以窮理、不足以尽理。陽明点出心即理也一言、何怪不視為河漢乎。

心は以て理を窮むるところなれども、以て理を尽くすに足らず。陽明、「心は即ち理なり」の一言を点出する、何ぞ怪しまんや、河漢たるを視ざることを。

心というのは、それによって理(この世のことのすじみち)を研究するものであるが、心だけに理のすべてが備わっているわけではない。どうして、王陽明ほどの男が、「心がそのまま理である」というテーゼを打ち出してしまって、黄河や漢水のような大きな流れ(この世の全体)を視野にいれなかったのであろうか。

と批判していたそうである。

同じ心をもとにしながら、純粋に善に発動すれば天理となり、悪に発動すれば人欲となる。朱晦庵はこのことを「天理人欲、同体異行」と言っているのですが、夏先生はこのことを敷衍して、

纔提起便是天理、纔放下便是人欲。

纔に提起すればすなわちこれ天理、纔に放下すればすなわちこれ人欲なり。

少しでもきちんとすれば、それで天理として発動するのであり、少しでもいい加減にすれば、それで人欲となるのである。

と言うたといい、当時のひとには「至言なり」と称賛する者もいた。

応用問題⇒「天理人欲、同体異行」に対して、「天理人欲、同行異情」というテーゼもあります。どう違うのでしょうか。

事が起こる前(未然)に心を豊かにする「涵養」の修業を言うて、

学者涵養此心、須如魚之游於水、始得。

学者この心を涵養せんとせば、すべからく魚の水に游(あそ)ぶが如くして始めて得るなり。

学ぶ者は、自分の心をひたひたと養おうとするなら、必ず、魚が水の中を泳いでいるような自由さを持つようにして、始めて得るところがあるであろう。

と。

そのほかにも多く語録や手紙文の遺っているひとですが、今日のところは省略。

 

A潘澗

字・徳夫、玉斎と号した。彼も永豊のひとである。婁一斎を師として学んだあと、彼は官に仕えることなく郷里に帰って、先生の教えを規矩準縄(ものさし・コンパス・墨縄)と考えて、自分の行動をすべてそれによって暮らしていた。

李空同というひとが田舎に遺されたままになっている人材を発掘するため江西に派遣されてきたとき、ひとびとはみな

「潘玉斎こそそのひとでござろう」

と推薦したので、李が会いに行くと、

時先生居憂、以衰服拝於門外。終不肯見。空同歎其知礼。

時に先生は憂に居り、衰服を以て門外に拝す。ついにあえて見(まみ)えず。空同、その礼を知れるを歎ず。

そのころ玉斎先生は親族の服喪中であり、官位にあるひとが来たというので喪服を着て門の外で出迎えて拝礼をしたが、家に入れて会談するということはしなかった。(ひとびとは失礼ではないかとそしったが)李空同は「よく礼の規定を知っているひとだのう」と称賛したという。

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「明儒学案」巻四より。来週はいよいよ、明の学風を一変させたという陳白沙の伝に入るよ。楽しみにしててくださいね。(仕事にヤラれて弱ってしまったり遠くに消えてしまったりしなければ、ですが)

 

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