↓バカおやじたち、という感じもありまちゅね。

 

平成20年12月2日(火)  表紙へ  昨日に戻る

呉康斎の門下には、胡敬斎婁一斎のほか、さらに触れておくべきひとが何人かいる。

●謝復、字は一陽。

別に西山と号した。南京西南の徽州・祁門(きもん)のひと、呉康斎に師事し、三年にして郷里に帰った後は、村落日常の践履のことに従事した。「践」(セン)、「履」(リ)はいずれも「踏む」と訓じるが、歩くことのように毎日毎日行う生産活動や社会活動など日常的な行動のことを指す。

村里の葉畏斎というひと、謝先生に

問知。

知を問う。

「知る」ということについて質問した。

答えて曰く、

行。

行うなり。

行動しろ。

一方、陳寒谷というひと、

問行。

行を問う。

行動とは何であるかについて質問した。

答えて曰く、

知。

知るなり。

認識しろ。

さすがにわからなくなった陳寒谷、

未達。

いまだ達せず。

どうにもわかりません。

と問うと、

知至至之、知終終之、非行乎。未之能行、惟恐有聞、非知乎。知行合一、学之要也。

至るを知りてこれに至り、終わりを知りてこれに終わる、行うにあらざらんや。いまだこれを行うあたわず、ただ聞くあるを恐る、知にあらざらんや。知行合一は学の要なり。

ずっといけばどこまでいくかを知って、そこまでいく。どのようにおしまいになるかを知って、そうおしまいにする。(というのは易の言葉であるが、最後を「知った」上で)このようにするのは「行動」ではないか。(教えられたことを)まだきちんと行えていない間は、次のことを教えられるのをたいへん恐れる。(というのは論語に出てくる子路の態度だが、「行える」かどうかを前提にしている)この行動は「知る」ということの意味を明らかにしているのではないか。「知る」と「行動」をいかに一つにするか、こそ、学問のカナメである。

と答えたのであった。

あるとき、役人が「まつりごとはどうすればいいとおもうかな」と訊ねると、

弁義利則知所以愛民励己。

義・利を弁ずればすなわち民を愛し己を励ますゆえんを知らん。

正義にかなうから行うか、利益になるから行うのか、その違いをおわかりになられれば、それは人民をいつくしみ、またご自分を発現せしめる方法がわかってまいりましょう。

と答えたという。

先生は宏治乙丑年(1505)に亡くなった。

●鄭伉、字は孔明。

浙江・常山象湖のひと。科挙に志すを潔しとせず、うわさを聞いて康斎のもとに馳せ参じた。

はじめて面接した康斎、曰く、

此間工夫、非朝夕可得。恐誤子遠来。

この間の工夫、朝夕に得べきにあらず。子の遠来を誤たんことを恐る。

おい。わしのところでの修行は一日や二日で終わることはないんじゃぞ。おまえが浙江から江西のここまで、遠いところをやって来た、というのは、期待はずれのことになると思うぞよ。

対して曰く、

此心放逸已久、求先生復之耳。敢欲速乎。

この心の放逸することすでに久し、先生のこれを復するを求むるのみ。あえて速やかなるを欲さんや。

わたしの心は、本心を失ってどこかに行ってしまってもう長いのです。先生の教えによって何とかこれを取り戻したい、と思ってここまで来たのです。どうしてすぐに結果を得よう、などと思いましょうか。

こうして、小学(日常の挙措振舞いに関する学のこと)の教えを受けた。後、帰郷して読書の日々を送る。彼は朱子の教えを奉じ、仏教や道教の教えを悪し様に言うたので、郷里のあるひとが

「まず仏教や道教の経典も勉強してから批判すべきではないか」

と諭すと、

其在外者已非、又何待読其書而後弁其謬哉。

その在外者はすでに非なり、また何ぞその書を読みて後その謬(あや)まちを弁ぜんや。

(自分の中にあるものを発現していこうという儒学と違い、)ほとけさんや老子さまといった外部にあるなにかを信仰する、という考えである点でもう間違いだということがわかるではないか。どうしてその経典などを読んでから、その誤謬を理解する、という必要があろうか。

と言い放ったという。

●胡九韶、字は鳳儀。

江西・撫州の金渓のひと。呉康斎の居地である撫州・祟仁の隣村であり、少年時代から康斎に入門していた。康斎先生が父の葬儀のために金陵(南京)との間を往復したとき、先生はずっとつきしたがって手助けをしたのである。

家は貧しく、子供たちとともに耕作に従い、わずかに食と衣を得るという生活であったが、毎日、夕食の時間になると

焚香謝天一日清福。

香を焚いて天に一日の清福を謝す。

香をたいて、天に対して、今日の「清福」な一日を感謝した。

のであった。

その妻、笑いて曰く、

「三度の食事はすべてお粥であるのに、何をさして「清福」などとおっしゃるのやら、おほほほ」

と。

すると先生は居住まいを正して、

幸生太平之世、無兵禍。又幸一家楽業無餓寒、又幸榻無病人、獄無囚人、非清福而何。

幸いに太平の世に生まれ、兵禍無し。また、幸いに一家業を楽しみて餓寒無く、また幸いに榻(トウ)に病人無く、獄に囚人に無く、清福にあらずして何ぞや。

ありがたいことに太平の世に生まれて兵乱に遇わず、ありがたいことに一家で農業に従って餓えと寒さを免れ、ありがたいことにベッドに寝ている病人無く、囚人となって獄に繋がれている家族もいない。清らかな幸福をいただいている、といわないで何といえばいいのか。

と言うた。

あるとき、康斎先生が

吾平生毎得力於患難。

吾、平生つねに患難に力を得。

わしは、これまで、いつも困難で苦しいときにこそ前に進むことができたのじゃ。

と話すと、これを聞いた若い学生が、先生のこの言葉をあちこちで吹聴しながら、自分も患難を求めたいものだ、と言うた。

胡先生はその学生を

惟先生遇患難進学。在他人則堕志矣。

これ先生のみ患難に遇いて学を進むなり。他人にありては則ち志を堕さん。

ばかものめ。康斎先生だからこそ、困難のおかげで学問を進化させることができたのじゃ。他のニンゲンは、苦しみのせいで堕落してしまうのが関の山じゃぞ。

と戒めたという。

成化年間(1465〜87)の初めに亡くなった。

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以上、「明儒学案」巻二より。

 

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