12月15日より続く。
貧乏に勝ったー!
とハイになりましてわしは窮困関を過ぎ、また暗い山道を登った。
歩きながら、思う。
唐の臨済禅師がこうおっしゃっておられるそうな。
真仏無形、真性無体、真法無相。
真仏は形無く、真性は体無く、真法は相無し。
仏さまのほんとうのところは形が無いし、生命のほんとうのところは身体が無いし、理法のほんとうのところは現われてくることなど無い。
だとすれば、窮やら困になって寒さや餓えを感じる「わたし」の「色身」(物理的存在としての身体)は無い、ということになるのではないか。
と、そこまで思い至ったとき、背後から悟元道士・劉一明の大音声が聞こえわたった。
「やあやあ、道を求める者よ、よく聞け。いにしえの仙人はこう言っておる。
莫執此身言是道、此身之外有真身。
この身を執りてこれ道なりと言うなかれ、この身の外に真の身あり、と。
「物理的なこの身体を本来の姿だと考えてはいかん。この身体の外に、まことの身体があるのじゃからのう」と。
自古成道仙仏、皆不重色身而修法身也。
いにしえより成道の仙仏、みな色身を重んぜずして法身を修むるなり。
大昔から多くの仙人や菩薩がそれぞれの方法でタオに至ったが、彼らはみな物理的な身体を重視することなく、本来の身体を大切にしたのであるぞ!」
道士は大分後ろの方にいて、山道を登っていくわれら修道者を励ましてくれているらしい。
「しかるにどうじゃ、この世の俗物どもは。みなこの物理的身体を真実であるとみなして、これを愛しこれを惜しみ、それを大切にして棄てることができない。
啖肉飲酒、以肥此身、華衣美服、以飾此身。日夜謀慮、時刻打算、費尽心血、耗散精神、与鬼為隣。
肉を啖い酒を飲み、以てこの身を肥えせしめ、衣を華にし服を美にして、以てこの身を飾る。日夜謀慮し時刻に打算し、心血を費やし尽くし精神を耗散して鬼と隣を為せり。
うまい肉を食い、酒を飲み、自分の体を肥らせる。きれいな衣・美しい服を着て、この体を飾る。毎日毎晩そのことばかりを考え、時々刻々に損得を計算し、心血を費やし尽くし、精神を消耗し散じつくして、悪霊たちと隣り合わせになって暮らしているのだ。(←やはり「肥る」のはいけないことなのですなあ)
この現実の身体は、天地の形を借りているだけのもの。
それは、地・水・火・風が仮に合わさって(「四大仮合」)できあがっているだけなのだ。
一旦陽気消尽、陰気独盛、魂飛魄散、直亭亭一団膿胞臭肉。
一旦陽気消尽し陰気独り盛んとなり魂飛び魄散ずれば、直亭亭として一団の膿胞・臭肉なるのみ。
ある日、陽の生気がとうとう消えてなくなり、陰気のみが残るようになったら、魂魄は飛び散ってしまい、すぐさま明らかに一個の膿みを入れた袋、臭い肉のかたまり、に化してしまうだけなのだぞ。」
――そうなのか、なるほど・・・。
と、そのとき、道の向こうに一の関門が聳え立っているのが見えた。暗い空を背景に、これまた黒々と行く手をさえぎっている。
――また関門が・・・。
とイヤになってまいりました。
すると突然、ハラが減ってきた。夜の山道の冷気がしんしんとして、寒くなってきた。
――これではまた窮困関に逆戻りではないか。
と力弱まり、関門の前にしゃがみこんでしまう。
そのうち、後ろから修道者たちを追い立ててくる劉道士の声がだんだん大きくなってきて、ついに関門の下に回りこんで、わしらの方を振り返った。
「これ、おまえたち、どうした? なぜここでしゃがみこんでいるのか?」
目の前に関門があるのに、道士にはそれが見えないのであろうか。
――道士さま、ここまでお連れいただいたのはありがたいのですが、そこの関門は黒々と大きく、どうもわしらには通り抜けられそうにはございませんのですよ、へへへ・・・。
わしが卑屈に申し上げますと、道士に同行してきた童子が道士の方を見まして、
「どうやらこのひとたちには関門が見えるようでちゅよ」
と言うた。
――見えて当たり前ではないか。何を言うているのだ、このがきんちょは。
と思っていると道士言う、
「そうか、窮困関を通過していても、なおここにも関門が見えるのか。凡夫の性よのう・・・」
と言うのである。
――はあ? なに言うているのですか、そこの関門があんたらには見えないのですかな?
と質問しますと、道士、払子を左右に、しゅ、しゅ、と振り、
「しからば汝らにはこの関門の題額は何と読めるか?」
――あんたらは字が読めないのか。暗闇の中にあるとはいえ、大きな文字で、ほれ、「色身関」と書いてあるではないか。
と教えてやると、道士、さらなる大音声に述べていう、
「なんとお前たちは、
妄想修身、而又不知究真、妄想成道、而又不知弁道。不究真、不弁道、不暁的真道是何事、迷迷昏昏、以此色身為真、怕苦着此身、怕労着此身、怕餓着此身、怕凍着此身、暖衣美食、保愛此身。・・・認仮為真、以虚為実、殊不知此身内外、皆是傷生之物。
妄想して身を修め、しかしてまた真を究むるを知らず、妄想して道を成し、しかしてまた道を弁まうるを知らず。真を究めず、道を弁えず、真道これ何事なるかを暁らかにせずして迷々昏々としてこの色身を真と為し、この身を苦しみ着するを恐れ、この身を労着するを恐れ、この身を餓着するを恐れ、この身を凍え着するを恐れ、暖衣美食してこの身を保愛す。・・・仮を認めて真と為し、虚を以て実と為し、ことにこの身の内外、みなこれ生を傷つくるの物なるを知らず。
いい加減な考えで身を保ち、ほんとうのことを究めることは考えないのか。いい加減なやり方でタオにたどりつこうとして本当のタオがなにものかを明かにしようとは思わないのか。ほんとうのことを究めず、タオを明かにせず、ほんとうのタオがどんなものなのかをさっぱり知らないままで、迷い、手探りで、この物理的な身体が本当なのだろう、この身体を苦しめたくない、疲れさせたくない、餓えさせたくない、凍えさせたくない、と暖かい服やうまいメシを求めて、この身体を大切に愛惜しているのだ。・・・にせものをほんものと考え、うそごとをまことと思い込み、特に、物理的な身体の内からも外からもほんとうの生命を傷つける行為をして、それに気づきもしないのだ!」
道士は払子を持ち直すと、それで背後にそびえている関門の扉を叩いた。
わしらはその大きな「色身関」が払子で叩いたぐらいでびくともするはずはない、と思っていたのだが、道士の払子は
どーん、どーん、どーん・・・
と激しい音を立てた。
道士、すごい顔をして言う。
若愛此色身之仮、而不究性命之真、大限一到、我是誰而身是誰。身与我両不相関。
もしこの色身の仮を愛して、性命の真を究めざれば、大限一たび到るのとき、我はこれ誰にして身はこれ誰ぞや。身と我はふたつながら相関せざるなり。
もしこのにせものである物理的身体を愛惜しほんとうの命の真実を求めないでいたならば、大いなるかの限りのとき(生→死の変化のとき)、おまえは誰で身体は誰なのか。おまえと身体は二つに分かれてしまうのだぞ。おまえと身体は関係がない、ということを思い知れ!
「そろそろでちゅね」
童子、ここが説法の重点であると認識して、ドラを鳴らした。
じゃーん、じゃーん、じゃーん・・・
道士も払子を打ち振って、思い切り扉を叩く。
どーん、どーん、どーん・・・
吾勧真心学道者、速将色身関口打通、莫被瞞過。
吾は勧む、真心の学道者よ、速やかに色身関口を打通し、瞞過せらるなかれ。
わしは、おまえたち真心よりタオを学ぼうとする者たちに勧める。すみやかにこの色身関を通り抜けよ。だまされ続けるな。
舎此色身于度外、別尋出個無形之形、無象之象的真身、方能延的性、明的性。
この色身を度外に捨て、別に個の無形の形・無象の象の真身を尋ね出だし、まさによくその性を延ばし、性を明かにせよ。
この物理的身体はどこかに棄ててしまい、別の、形なく像も無いまことの身体を探し出すのじゃ。そしてそのあるべきものを延ばし、あるべきものを明確にせよ。
どーん、どーん、どーん・・・
なんと、払子に叩かれているだけで、色身関門はびりびりと震え出し、前後左右に大きく揺れ始めた。
道士、さらに声を大いにせしめて言う、
蓋以舎的仮、方能求的真、認的仮、始能見的真。邪正不並立、善悪不同途也。
けだし仮を捨てるを以てまさによく真を求め、仮を認めて始めてよく真を見る。邪正は並び立たず、善悪は途を同じうせざるなり。
つまるところ、にせものを捨てるとやっとよくホンモノを求めることができるのだ。にせものをにせものと認識できて、はじめてホンモノをホンモノと知ることができるのだ。よこしまなものと正しいものは並び立つことが無く、善きものと悪しきものは同じ道を行くのではないのだから。
道士の言葉がここに到ったとき、関門は大きく傾き、そして崩れはじめた。
――ああ!
と息を呑むよりも速やかに、関門は大地に吸い込まれるように消え去った。
後にはきれいな星空が見える。
「さあ、行け、行け」
茫然とその様子を見ていたわしらは、払子を振って励ます劉道士の声に促がされ、さらに先に進んだのである。
さっきまで立っていたように見えた色身関の関門は何であったのか。
「さあ、行け、行け」
という道士の声をだいぶ後ろに聞くようになってから、わしはようやく
――そうか、あれははじめから無かったのだ。
と思うに至ったのである。
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清・悟元道士・劉一明「通関文」より。
明日休みなので力いっぱい訳したです。毎日休みにしてくれたら毎日これぐらいがんばるです。