先週・12月16日に約束したによって、明の大賢者・陳白沙のことを話さねばならんのだが、どこから話せばよいものだろうか。
彼は、王陽明と並称される思想家であるが、陽明が用兵家として事功(世間的な業績)のひとであるに対して、白沙は世間的な能力は無いに等しく、若きより老いるまでほぼ一貫してはるか南海の郷里で子弟の教育に携わっていた。陽明の思想が刹那の動を重視する動の哲学であるのに対して、白沙は主静を標榜する静の哲学者である。
しかしながら二人には似通ったところがあって、いわば「同じにおい」がする思想家でもある。どこが似ているのか、と面と向かって問われると説明しずらいのだが、空理空論よりも実地の体得を重視し、ニンゲンの心の自由を大切にする、というあたりは似ているであろう。それが明代の時代思潮でもあったが、これは決して全面的に評価さるべきとも言い切れぬ。実地の体得は読書・分析の学問を否定し、心的自由の重視は自己完結的で主観的な思想を生み出し、実際、陽明の学統はこの二点から、社会思想としては無力化してしまうのだからである。
・・・まあ、いいや。
それはそのときにお話しするお話しです。まずは白沙先生のことを言わねばならん。
陳献章、字・公甫は新会の白沙里のひとである。ために白沙先生と呼ばれる(新会は広東の地名)。学統としては呉康斎の直弟子になる。
宣徳三年(1428)の生まれ、長じて
身長八尺、目光如星、右瞼有七黒子如北斗状。
身長八尺、目光星の如く、右瞼に七黒子の北斗の状の如きあり。
身の丈八尺の巨漢、まなこには星の如き光輝き、何より異様なのは、右のまぶたに七つのほくろがあって、目を閉ざすとそのほくろがまるで北斗七星のように並ぶのであった。
ちなみに明代の一尺は31センチぐらいなので、それを当てはめて計算すると2M50センチぐらいの背丈になります。
それはすごいのですが、ここは漢尺(24センチ)を当てはめているのではないか。それでも2M近い大男である。
また、書を読んでは一覧すればすべて暗唱してしまうという能力(いわゆる「写真的記憶」)を持っていた。
その陳青年、あるとき、
夢拊石琴。其音冷冷然。
夢に石琴を拊(う)つ。その音、冷々然たり。
石の琴を叩く夢を見た。その音は、ひえびえと響いた。
その音の澄んでいるのを耳そばだてて聴いていると、夢のことであるから誰かは知れぬが、横合いからあるひとが言うた。
八音中惟石難諧。子能諧之、異日其得道乎。
八音中に、これ石のみ諧(ととの)え難し。子、よくこれを諧うれば、異日それ道を得んか。
(金・石・糸・竹・瓠・土・革・木の八種類の楽器の中で、)石の音だけはその音階を調えるのが難しい。おまえはこれを調えることができるようになりなさい。そう努力していれば、いつの日か真理を体得することができるようになるだろう。
夢より覚めてその言を以て、自ら
石斎
と号したのである。
ちなみに、石は密度とか結晶の方向とかが整っていないから、音階を調えるのが難しいのでしょうかなあ。
というか、これはユング派のいう「オールド・ワイズマン」の忠告というやつですね。青年・陳献章はかなり霊的に鋭い性質であったのでしょう。
正統十二年(1447)に広東の郷試に挙げられ、翌年、地方試験に乙榜で合格して国子監に入学を許された。
しかし、その後(自ら言うところでは年二十七=景泰五年(1454)のときである)、江西・祟仁に赴いて呉康斎に入門し、その学問に深い影響を受けたのであった。(そのときのエピソードについては、こちらを参照)
やがて郷里に帰り、
築陽春台、静坐其中、不出閾外者数年。
陽春台を築き、その中に静坐して、閾外に出ざること数年。
家に陽春台という建物を作ってその中に毎日静かに座って瞑想し、敷地の外に数年出ることがなかった。
しかし、親族に不幸があって、ようやくそこから出てきたのであった。
この時期のことを白沙は、後年になって、
僕年二十七、始発憤従呉聘君学。其於古聖賢垂訓之書、蓋無所不講。然未知入処。比帰白沙、杜門不出専求所以用力之方。・・・
僕、年二十七、始めて発憤して呉聘君に従いて学ぶ。その古しえの聖賢の垂訓の書において、けだし講ぜざるところ無し。しかるにいまだ入る処を知らず。これより白沙に帰りて、門を杜ざし出でずして専ら以て用力するところの方を求む。・・・云々
わしは二十七の年に、初めてやる気になって祟仁の呉先生のところに赴き、先生に従って学んだのじゃ。先生のところでは、古代の聖人賢者の教えを書いた経典はすべて講義の対象であ(り、それらを学んだのであ)った。しかし、学んでも、どこから手をつければいいのか、わからない。そこで、その後、白沙に帰ってきて、門を閉ざして家から出ず、とにかくどこから手をつければ自分のものにできるのか、その方法を求め続けたのじゃった・・・。
当時の広東は辺境である。近くに先生も学友もいないので、寝ることも食うことも忘れて「静坐」して求め続けたのじゃ、と回顧している。
成化二年(1466)、再び北京に赴いて太学の門に入った。
時の太学祭酒(教授)・邢譲、その詩文を見て感じ入り、
驚曰、即亀山不如也。颺言於朝、以為真儒復出。
驚いて曰く、「即ち亀山も如かざるなり」と。朝に颺言(よう・げん)し、以て真儒また出づ、と為す。
驚いて、「これには楊亀山もかなわんであろう」と言い、朝廷中に「ほんとうの儒者が再出現したようじゃ」と言いふらした。
北宋〜南宋期の儒者で朱晦庵の先生の先生の先生に当たる楊亀山の詩に唱和する詩を作らせたときのことなので、「亀山に如かず」という言葉が出てくるわけですが、楊亀山はその出処進退に問題があるひと(何しろ奸臣・秦檜に魂を売ったとかなんとかという噂が・・・)ですから、わしは比べられたらイヤな気がしますが、明代のひと、あるいは正統的に儒学を学んでいるひとにはそうでも無いのでしょうなあ。
いずれにせよ、これによって陳白沙の名は北京城内に鳴り響き、羅一峯、章楓山、荘定山といった一流の思想家たちと友誼を結ぶことができた。
この後、帰郷したところ、入門を希望する者がひきもきらず、たいへんな数になったという。 (→来週に続く)
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「明儒学案」巻五・白沙学案より。
今日は以前から行こうと思っていた小金井の江戸東京たてもの園に行ってきた。駅からそこそこ歩くので疲れた。具だくさん豚汁おいしうございました。かきあげそばおいしうございました。大ダコ入りたこやきも食べとうございました。