↑鶴は仙人のともだちだったりする。

 

平成20年12月4日(木)  表紙へ  昨日に戻る

みんながわしのことをばかにして、

「あいつを「他山の石」にして、わしらは行動しなければならん」

と言うているらしい(←聞こえてきた)ので、ちょっと説教をします。

「詩経」といわれる書物があります。周の時代のうたの歌詞(歌詞の無いうたは題名だけ)を記録したもので、伝説では、もと三千ぐらいの歌詞があったのですが、孔子が多くを削ってそのうちの(約)三百篇(※)だけに整理したのが、今みる「詩経」だという。もちろん「経」という呼び名は、後世になってこの書が「儒教」という学問体系の中で「経典」とされたために付けられたので、もともとの呼び名はただの「詩」であった。

※古い注釈付きテキストである毛詩の数え方によれば311篇である。ただしこのうち6篇は題名しか伝わらないので、実質は305篇とされる。毛詩は6篇については「佚した」としているのであるが、現代では、もともとこの6篇については歌詞の無いインストゥルメントだけの曲だったのではないか、と解されるのが通常。ただし、歌詞は無いけどその曲に合わせ舞われる舞踊があったのであろう。

子曰、詩三百、一言以蔽之、曰、思無邪。

子曰く、詩三百、一言以てこれを蔽わば、曰く、「思い邪(よこ)しま無し」、と。

先生がおっしゃった。

「詩」の三百篇、ひとことで全体をカバーすることばは、すなわち「邪しまな思い無く、まっ直ぐである」じゃろう。

というのは「論語」為政篇の中の「詩」に関する記述。

この「思い邪しま無し」というのは、「詩」三百篇のうち魯の頌である「駉」(ケイ)のうたの中の言葉である。その一言を以て古代歌謡の本質を見事に言い表した孔子の力量に感じ入らざるを得ないが、一方、この一節は孔子の時代には現代見る「305篇」の「詩経」にほぼ近い「詩」というテキストが存在したことの証左でもある。

閑話休題。

「詩」の三百篇は、各地の民謡である「国風」と周王朝の儀礼歌謡である「大雅」「小雅」、周・魯・商の先祖祭の際の歌謡である「頌」に分かれております。

その「小雅」の中に「鶴鳴」という美しい一篇があるのじゃ。

鶴鳴于九皐、声聞于野。      鶴は九皐に鳴き、声は野に聞す。

魚潜在淵、或在于渚。        魚は潜みて淵にあり、あるいは渚にあり。 

楽彼之園、爰有樹檀、其下維蘀。 楽しきかな、彼の園、ここに樹の檀なるあり、その下はこれ蘀(タク)。

它山之石、可以為錯。        它山の石は、以て錯と為すべし。

詩経鄭箋(「「詩経」に漢の鄭氏のつけたメモ」)によると、「鶴」は賢人の比喩で、「九」は「たくさん」、「皐」(こう)は「沢」のことである、といい、「鶴鳴于九皐、声聞于野。」は、

賢人雖隠居、人咸知之。

賢人は隠居すといえども、ひとみなこれを知る。

賢者は隠れ住んでいても、ひとびとはみなそのひとが賢者である、ということを知っている。

という意である、と言う。

また、詩経孔疏(「「詩経」に唐の孔氏がつけた詳細な注釈」)によれば、「魚」も賢者の比喩であり、

以魚之出没、喩賢者之進退。

魚の出没を以て、賢者の進退に喩す。

魚が見え隠れするのを使って、賢者が世間に現れたり隠居してしまったりするのを譬えたのである。

という。

さらに、「園」は一国の比喩、「檀」の木は硬くて車の材料などに使われていた。貴重で役に立ち大きく育つ木とされており、「立派なひと」の比喩。これに対して、「蘀」(タク)は「棗」の一種だとされるが、この木は小さく、また材質は柔らかくてあまり役に立たない。「下働きのひと」あるいは「小人」の比喩であるという。

鶴が九重の沼沢の向こうで鳴いた。

その声ははろばろと原野に聞こえわたる。(賢者は隠れ住んでいてもその存在は隠しようがない。)

魚が深い淵に隠れていたかと思うと、

今は渚の浅瀬に姿を見せた。(賢者は時に応じて出世し、時に応じて隠居するものだ。)

この樹木の茂った園は楽しいところで、そこに貴重な檀の木があり、その下にはあの棗が生えている。

(よく治まった(我が周)国では、君子と小人は秩序を保って己れの職務を果たしている。)

そして、最後に「他山の石、以て「錯」と為すべし」と言う。「他山の石」とは、別の国の賢者の比喩。「錯」は「厝」(サク)の仮借で、「厝」は「説文」によれば「玉を刻むための石」だという。要するに宝玉を研磨するための砥石である。

他の山の石は、玉を磨くための砥石となるであろう。

(他の都市国家の賢者で在野のひとの言行は、我が国(周)の政治をよりよくするのに役立つであろう。)

というのである。

現代では「他山の石」はわしがそうであるであろうように、「悪い例」、「反面教師」というように理解されている気がしてならないのですが、如何なものでしょうか。ちなみにわたしはどうでもいいです。言葉はその時世・その社会の中で使われるべきように使われるものであって、いにしえの意味をいつまでも堅持する必要はない。

ちなみに、「鶴鳴」には第二連あり。

鶴鳴于九皐、声聞于野。      鶴は九皐に鳴き、声は野に聞す。

魚在于渚、或潜在淵。        魚は渚にあり、あるいは潜みて淵にあり。 

楽彼之園、爰有樹檀、其下維穀。 楽しきかな、彼の園、ここに樹の檀なるあり、その下はこれ穀。

它山之石、可以攻玉。        它山の石は、以て玉を攻(おさ)むべし。

うひゃあ、またすごい時間になってきた。明日のしごともあるので、もう現代語訳は省略します。第一連とどこが違うのでしょうかね。

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ちなみに、こういうのは注釈がきちんとあるからラクチン。でも時間がかかってかなわん。

 

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