
↓このお話しは、海が怖いのであろうか、女が怖いのであろうか。
五代・呉国に仕えた朱廷禹(あるいは宦官であったともいう)から教えてもらった話である。
・・・船に乗っているときの不思議な事件について、お話ししましょう。今日は第一話。
わが親族の一人が海船に乗り組んでいたとき、大いに風が吹き波起こり、船がまさに顚覆しそうになったことがあったそうなのです。
海師(船長)が怒鳴り声で言うに、
此海神有所求、即取舟中所載、棄之水中。
「これ海神の求むるところあるならん」と。即ち舟中の載せるところを取りてこれを水中に棄つ。
「これは、海の神が何かを求めておられるのじゃ」
そこで、みな船の中の物を手当たり次第に取って海中に投げ込んだ。
海神さまが何か欲しいものがあって船を海中に引きずり込もうとしている、というのです。その欲しいものを放り込んでやれば、船には興味が無いはずですから船自体は助かるはず。一方、海神さまが何を欲しがっているか、はわからない。欲しいものを放り込まずにいると船もろとも沈められてしまうのですから、この状況では、とにかく手当たり次第に放り込むしかない。
乗り組みたちは何かに取り付かれたように大切な船荷を海中に放り込む。
物将尽。
物、まさに尽きんとす。
もう船の中にはほとんど物は残らなくなってきた。
物が無くなってもまだ海が荒れているようなら、今度は船に乗っている誰か、が求められているかも知れない、と推測されることになります。そうなったら今度はニンゲンが次々と海中に投げ込まれるのである。
と、そのとき、
有一黄衣婦人、容色絶世、乗舟而来。
一黄衣婦人、容色絶世なるが有りて、舟に乗りて来る。
黄色い服の、顔かたち絶世の美貌の女性が乗った小舟が、どこからか嵐の海面に現れて、こちらの船に近づいてきたのだ。
よくよく見るに、
四青衣卒刺船、皆朱髪豕牙、貌甚可畏。
四青衣卒、船を刺し、みな朱髪にして豕牙、貌はなはだ畏るべし。
四人の青い服の兵卒がその舟を操っており、彼らはみな髪赤く、イノシシのような牙の生えた、姿まことに恐るべきカイブツたちであった。
船乗りたちは船荷を投げ込んだり帆を操ったりする手を止め、茫然としてその小舟を見つめた。
小舟は荒れ狂う嵐にもかかわらず、見事にこちらの船の舷側に船べりをつけ、そこから黄色い服の美しい女が、
ひょい
と乗り移ってきた。
美しい――と表現したが、その美しさはニンゲンのものではない。その背丈は既に一丈(約3.1メートル)をゆうに越え、屈強の船乗りたちが遥かに仰ぎ見る大いなる女なのである。
女、船乗りたちをじろりと見回し、
有好髪髢、可以見与。
好(よ)き髪髢(はつ・てい)有らん、以て見るべきか。
すてきな「かもじ」(髪を増やすために使うカツラ)がおありと思うの。見せていただけますこと?
と言うた。激しい波浪と暴風の中であったが、その凛々とした声はよく聞こえたそうだ。
船乗りたちは半ば恐れ、また半ばは畏れ多くもあり、ぽかんと口を開けたまま答えられなかったそうであるが、ようやく船長が、
物已尽矣。
物、すでに尽きたり。
「もう船荷は残ってございません。
これまでに棄てた荷物の中に、その「かもじ」が入っていたのかも知れませぬ。」
と答えると、女、
かは――――!
と声立てて、笑った。その笑いの一瞬、口、目、鼻孔が二倍にも三倍にも大きくなり、顔全体が口と目と眉と鼻だけになったかと思うほどであった。
女の顔はすぐに元の美しきに戻り、いう、
在船後掛壁篋中。
船後の壁に掛けし篋中に在り。
船の後部の壁に、竹の箱がかけてありましょう。その中にございますの。
と。
そういうか否かのうちに、女の右の腕が長く、長く長く伸びて、船尾の操舵室の壁にかけられていた竹製の箱の蓋を開いた。
その箱は舵の係の船乗りたちの共有物を入れておく箱であったが、そこでようやく船乗りたちは、その箱に入っている頭陀袋の一つには、若い船員が家を出てくるときに日用品とともに誤って入れて来てしまった女房の「かもじ」が入っていて、船出してすぐのころに大いに冷やかし笑いをしあったことがあったのを思い出した。
女は竹の箱の中から「かもじ」を探り出すと、
ひょ――――!
と、うれしそうな声を上げながら伸びた手を引っ込めて、「かもじ」を懐にしまいこんだ。
ついで今度は左の手が伸び、
船屋上有脯腊、婦人取以食四卒。
船屋上に脯腊(ほ・せき)有りしを、婦人取りて以て四卒に食らわす。
「脯」(ほ)も「腊」(せき)も干し肉。
女は、船楼の上階に干し肉があったのを取り上げて、そのまま長い腕をぐるりと回して、小舟の中にいた四人の兵卒どもに与えた。
船乗りたち、そのときにはっきりと
視其手、鳥爪也。
その手を視るに鳥爪なり。
女の手を見たのだが、それは鳥の足のようであった。
女はあまりのことに身動きできないでいる船乗りたちを尻目に、
持髢而去。
髢を持して去る。
かもじを持って小舟に乗り移ると、四人の兵卒に命じて舟を操らせ、波浪の中をあっという間に遥か彼方に去ってしまった。
その小舟が見えなくなったころ、ようやく船乗りたちは我に返ったのだが、いつのまにか風波はおさまっており、また、
舟乃達口。
舟すなわち口に達す。
船は既に目指す港の入り口まで来ていたのであった。
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五代・徐鉉「稽神録」巻六より。朱廷禹さんは明日は第二話を語ってくれるでしょう。