余祐、字・子積は」斎(じん・さい)と号し、江西・鄱陽のひとである。年十九のとき同じ江西の饒州に赴き、胡敬斎先生に入門した。
胡敬斎は余祐の正直にして篤実な人柄を愛し、その女を以て妻あわせた。
弘治己未年(1499)に進士となり、南京・刑部主事となる。
なお、後の陽明先生・王守仁は彼と同じ年の進士で、北京・刑部主事に任ぜられている。
正徳帝が即位(1506)すると、その太子時代からの側近であった劉瑾を始めとする八人の宦官が権力を掌握した。彼らは「八虎」といわれて畏れられたが、余祐も王守仁も、彼らの意に忤らって職を失った。
正徳五年(1510)に「八虎」が誅されると、余祐は福州知事、次いで山東副使となるが、ここで持ち前の正義感が顕れて、宦官の行っていた交易の非違を追及して、その貨物を没収してしまった。これに北京の皇帝周辺が激怒し、ために獄に下されて、亜熱帯の南寧府に遷された。
宦官の交易は、宦官が自分で商売しているのではなく、実態は皇帝の代理である宦官が皇帝の私財を用いて交易をしているのである。皇帝の権威を背景に非道に民間から収奪するだけでなく、国家の行政機関である州や県の利害とも相反したから、当時のマジメな行政官たちはみな憤っていたのであるが、そういう仕組みであったから貨物を没収までしてしまうというのは許されることではなかった。
命があるだけ幸いなことであったのである。
しかしながら、正徳帝が崩御して嘉靖帝が即位(1522)すると復権し、河南按察使に挙げられ、さらに廣西の官を経て雲南左布政となった。
その後、北京で吏部侍郎(人事院副総裁)に任ぜられることになり、帰京の準備をしている間に任地の雲南で亡くなった。年六十四。
その学問は胡敬斎の伝を継ぎ、着実な修養による進歩を宗とするものである。
程朱教人、拳拳以誠敬為入門。学者豈必多言。惟去其念慮之不誠不敬者使心地光明篤実。邪僻詭譎之意勿留其間、不患不至於古人矣。
程朱の人を教うる、拳拳(けんけん)として誠敬を以て入門と為す。学なる者は、あに必ずしも多言ならんや。その念慮の不誠不敬なる者を去りて、心地をして光明篤実たらしむるのみ。邪僻詭譎の意その間に留むる勿ければ、古人に至らざるを患(うれ)えざるなり。
宋の程氏兄弟や朱晦庵がひとを教えるに当っては、着実に、「誠」(まこと)と「敬」(うやまい)を以て最初に学ぶこととしたのだ。学問というのはいろんな言葉を必要とするものではない。ただ、その思念の中から、「誠でない」「敬しない」ということを取り去って、心を光明に溢れ、篤実なものとすれば、それでいいのだ。よこしま・ひがごと・だまし・いつわり、これらの思いをそこに少しも留めないようにできれば、いにしえの聖人賢者と比べてまだダメだとか劣っているとかいう必要さえないのである。
という言葉が伝わっているが、その気質の濁りを逐一去って、徐々に本然の明に至ろうという学風を窺うに足る。
だから、同年(同じ年に科挙に合格した者同士。生涯の友人となることとなっていた)の王陽明が「朱子晩年定論」を著わして、
朱子が晩年になって最後に至った境地は、細かい勉強をするのではなくて、本心を養えばそれでいい、というものであったのだ。
と主張したとき、大いにこれに反論したのであった。
余祐の論は、
朱晦庵先生の心に関する学風は三回変化している(朱子心学三変)。
というのである。
その論によれば、・・・・・・・・・・・・・・・・
@ 朱子は少年時代、禅を学んだから、この時代は心を養うのを宗としていた。二十歳前後で亡父の友人であった李延平に出会ってやっと儒学に目覚めたのである。
A 三十代のころ、自分より若く、宰相を嘱望されていた張南軒に出会って、心が動いたその瞬間を捕えて自分を鍛えようという「察識端倪」の学に影響された。これは胡五峯らが伝えた当時の正統的な修養法でもあった。
B その後、四十前後になって、Aに加えて、何事も無いときに静かに心を養う「平時涵養の工夫」を悟り、A已発(すでに心が動いたときの察識)・B未発(いまだ心が動いていないときの涵養)のいずれの段階でも修行しなければいかんという
体用不偏、動静交致其力。
体用不偏、動静こもごもその力を致す。
本体と作用のいずれにもかたよらず、動いたときも静かなときもそれぞれに精一杯の工夫をする。
の考えに至ったのである。
以後、朱子の思想は大きくは変化しなかった。
これに反して、王陽明くんの説は
以其入門工夫、謂之晩年哉。
その入門の工夫を以て、これを晩年と謂うなり。
その若いころのやり方を以て、晩年の定論と言い換えているものである。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・と批判したのであり、現在に至るまで定説とされている。
以上、「明儒学案」巻三より。一部「明史」304巻「宦官伝」を参照した。こういう地味で着実な人がいて、思想史はやっと豊かになる。