↑「またおいらの仲間のお話でにょろろ〜ん」

 

平成20年9月18日(木)  表紙へ  昨日に戻る

以下のお話は庸陂V人・陳其元の言うところである。陳其元は嘉慶十六年(1811)の生まれで光緒七年(1881)に亡くなっているから、19世紀のことだ。

この時期はアヘン戦争、太平天国の乱、アロー号事件、などの時期でありまして、貿易や外交のため、チュウゴクの地には西欧から多くの船舶が来往していた。

これらの船は

近時総用輪舟、愈行取径愈捷、往往于海中新開一路、則可近千里万里。

近時すべて輪舟を用い、いよいよ行きて径を取りいよいよ捷(はや)く、往往にして海中に一路を新開せば、すなわち千里万里も近づくべし。

近年では、すべて(帆船ではなく)輪のついた蒸気船である。そして、航路として近道をとれば取るほど早く到達することができるから、往々にしてあったことであるが、大海中において新しい航路を開拓すると、千里も万里も行程を短くすることができた。

さて、

庚午年。

のこと。

干支は60年で一周しますので、陳其元の生存した七十年の間に「庚午」(かのえ・うま)の年は一回か二回しか巡ってこない。暦を閲するに同治九年(1870)が庚午に当りますので、これは1870年のことです。

一輪舟新開一路。

一輪舟、新たに一路を開く。

一隻の蒸気船が、新しい航路を開いたのであった。

それはよかった。

のですが、この船、

忽遇大蛇追舟行、行至三日夜不去。

忽ち大蛇の舟行を追うに遇い、行くに三日夜に至るも去らず。

突然、大いなるヘビが船の航跡を追ってくるのに遭遇した。船長は船を休めることなく走らせたが、航海三昼夜に至っても振り切ることはできなかった。

「どうしてどこまでも附いてくるのか」

「あれは、おそらく餓えているのではなかろうか」

「われらを食おうと追うてきているのではなかろうか」

船乗りたちは大いに恐れた。

ところで、この船は、東洋の地に、西欧人の欲する乳や肉を産するための家畜を運ぶ貨物船であった。

船乗りたちは、恐怖に駆られ、これらの家畜を大蛇に与えることとした。

まず、

以羊飼之、投三十七羊。

羊を以てこれを飼わんとして、三十七羊を投ず。

ヒツジを与えてヘビをなだめようとして、三十七匹のヒツジを次々と海中に投じた。

しかし大蛇は、

食之而追不已。

これを食いて追うをやめず。

三十七匹を順次食って、それでも追いかけてきた。

えさを与えたので、もっとくれ、と追いかけてきたのです。

船乗りたちは怖れることひとかたならず、今度は、

乃投二牛。

すなわち二牛を投ず。

貴重なウシを二頭、海中に投じた。

船上では、

「このウシで満足してくれなければ・・・」「うむ」「ひひひ・・・」

「お、おまえら、なぜわしの顔をみるのだ?」

「ひひひ、おまえが一番太っているからな」「ひひひ・・・」

と緊迫した状態になりつつあった。

と、ヘビは、

呑訖、曳尾去。

呑み訖わりて、尾を曳きて去れり。

ウシを食い終わると反転し、尾を長く引きながらいずこかに消えて行った。

ようやく満腹してくれたようです。

ウシで満足してくれなければ次は・・・という状態だったので、実存主義的の極限状態になる前で助かったのでした。

そして、

自此、此路不敢行。

これより、この路、あえて行かず。

これ以降、この航路をあえて使う者は無かった。

さて、庸陂V人思うに、

西人不信有龍、凡蛟螭之属、咸名曰蛇而已。

西人は龍あるを信ぜず、およそ蛟螭の属、みな名づけて蛇と曰うのみ。

西洋人は龍が存在していることを信じていない。ために、水竜の類をすべて「ヘビ」と呼んでいる。

ここで「大蛇」と呼ばれているのはそのせいで、この船が遭遇したのは、「みずち」だったのであろう。

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以上、「庸闕ヨ筆記」巻六による。

(こう)・(ち)はいずれも水竜(みづち)である。

西洋人も昔は龍の存在を信じていたと思うのですが、近年はそういうのは止めたのでしょう。しかし東洋人は粘っこく龍の存在を確信していたのである。しかし、龍がいようがいまいが、実はどうでもいいのです。現代の優れた技術があれば大蛇だろうが水竜だろうがサーペントだろうが、びびることは無かった。しかし、いにしえのひとたちは西洋も東洋も、この程度のものにびびっていたのか、と思うと同じニンゲンとして情けない。われわれはすぐれた現代人で、なんとよかったことではないかね。

 

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