以下のお話は庸陂V人・陳其元の言うところである。陳其元は嘉慶十六年(1811)の生まれで光緒七年(1881)に亡くなっているから、19世紀のことだ。
この時期はアヘン戦争、太平天国の乱、アロー号事件、などの時期でありまして、貿易や外交のため、チュウゴクの地には西欧から多くの船舶が来往していた。
これらの船は
近時総用輪舟、愈行取径愈捷、往往于海中新開一路、則可近千里万里。
近時すべて輪舟を用い、いよいよ行きて径を取りいよいよ捷(はや)く、往往にして海中に一路を新開せば、すなわち千里万里も近づくべし。
近年では、すべて(帆船ではなく)輪のついた蒸気船である。そして、航路として近道をとれば取るほど早く到達することができるから、往々にしてあったことであるが、大海中において新しい航路を開拓すると、千里も万里も行程を短くすることができた。
さて、
庚午年。
のこと。
干支は60年で一周しますので、陳其元の生存した七十年の間に「庚午」(かのえ・うま)の年は一回か二回しか巡ってこない。暦を閲するに同治九年(1870)が庚午に当りますので、これは1870年のことです。
一輪舟新開一路。
一輪舟、新たに一路を開く。
一隻の蒸気船が、新しい航路を開いたのであった。
それはよかった。
のですが、この船、
忽遇大蛇追舟行、行至三日夜不去。
忽ち大蛇の舟行を追うに遇い、行くに三日夜に至るも去らず。
突然、大いなるヘビが船の航跡を追ってくるのに遭遇した。船長は船を休めることなく走らせたが、航海三昼夜に至っても振り切ることはできなかった。
「どうしてどこまでも附いてくるのか」
「あれは、おそらく餓えているのではなかろうか」
「われらを食おうと追うてきているのではなかろうか」
船乗りたちは大いに恐れた。
ところで、この船は、東洋の地に、西欧人の欲する乳や肉を産するための家畜を運ぶ貨物船であった。
船乗りたちは、恐怖に駆られ、これらの家畜を大蛇に与えることとした。
まず、
以羊飼之、投三十七羊。
羊を以てこれを飼わんとして、三十七羊を投ず。
ヒツジを与えてヘビをなだめようとして、三十七匹のヒツジを次々と海中に投じた。
しかし大蛇は、
食之而追不已。
これを食いて追うをやめず。
三十七匹を順次食って、それでも追いかけてきた。
えさを与えたので、もっとくれ、と追いかけてきたのです。
船乗りたちは怖れることひとかたならず、今度は、
乃投二牛。
すなわち二牛を投ず。
貴重なウシを二頭、海中に投じた。
船上では、
「このウシで満足してくれなければ・・・」「うむ」「ひひひ・・・」
「お、おまえら、なぜわしの顔をみるのだ?」
「ひひひ、おまえが一番太っているからな」「ひひひ・・・」
と緊迫した状態になりつつあった。
と、ヘビは、
呑訖、曳尾去。
呑み訖わりて、尾を曳きて去れり。
ウシを食い終わると反転し、尾を長く引きながらいずこかに消えて行った。
ようやく満腹してくれたようです。
ウシで満足してくれなければ次は・・・という状態だったので、実存主義的の極限状態になる前で助かったのでした。
そして、
自此、此路不敢行。
これより、この路、あえて行かず。
これ以降、この航路をあえて使う者は無かった。
さて、庸陂V人思うに、
西人不信有龍、凡蛟螭之属、咸名曰蛇而已。
西人は龍あるを信ぜず、およそ蛟螭の属、みな名づけて蛇と曰うのみ。
西洋人は龍が存在していることを信じていない。ために、水竜の類をすべて「ヘビ」と呼んでいる。
ここで「大蛇」と呼ばれているのはそのせいで、この船が遭遇したのは、「みずち」だったのであろう。
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以上、「庸闕ヨ筆記」巻六による。
蛟(こう)・螭(ち)はいずれも水竜(みづち)である。
西洋人も昔は龍の存在を信じていたと思うのですが、近年はそういうのは止めたのでしょう。しかし東洋人は粘っこく龍の存在を確信していたのである。しかし、龍がいようがいまいが、実はどうでもいいのです。現代の優れた技術があれば大蛇だろうが水竜だろうがサーペントだろうが、びびることは無かった。しかし、いにしえのひとたちは西洋も東洋も、この程度のものにびびっていたのか、と思うと同じニンゲンとして情けない。われわれはすぐれた現代人で、なんとよかったことではないかね。