↑「わんわん」と鳴くのでしょうか?

 

平成20年9月5日(金)  表紙へ  昨日に戻る

羅大経が曰く、

南宋・理宗皇帝(在位1225〜64)の宝慶年間(1225〜1227)、時の権力者が恐れる二人の硬骨漢があった。いずれも二十年少し前に亡くなった朱晦庵の学統を引く、学者あがりの官僚政治家であった西山・真徳秀鶴山・魏了翁である。(訳者注:どちらも実際には、ゴリゴリの理論派で現実に適応した政策・行政能力を欠いていたが、当時の読書人たちの間では人気があったのである。)

そこで時の権力者(これは、理宗の擁立に力があり、その治世の初期に宰相であった史彌遠(し・びえん)のことである)は、この二人を除こうと欲した。

宋あたりの時代になるといろいろと複雑ですから、権力者が

「こいつ、クビ」

と考えたからといって、すぐに「ぽぽん」と人気官僚のクビを切れるわけではない。まずどこかから(一番いいのは官吏の非違を取り締まる監察御使あたりから)、その官僚の非違行為(必ずしも違法である必要はない)が挙げられ、個人攻撃が行われて、「このまま役職に止めておくわけにはいけませんなあ」という状態にしてから、やっとクビを切ることができるのが普通でありました。

そこで、権力者は、真西山と魏鶴山を弾劾する者を内々に探した。多くの者は、この二人のような人格高潔な方を批判することはできない、と断ったが、梁成大という官吏あり、

独欣然願当之。

ひとり欣然としてこれに当らんことを願う。

ただひとり、喜んでそのことをしたい、と志願した。

そこで監察院に配置換えされ、それ以降、両先生を攻撃・糾弾して余すところが無かったのである。

両先生を尊敬する太学(天下に一つのみある国立の学校)の学生たちから見れば、権力者のために正義の方々を攻撃する梁成大のさま、まことに不快。あるいは醜悪。

ために、太学の諸氏、落書して

大字傍宜添一点。

大字かたわらに一点を添えるべし。

大の字の側には点を一つ、打つがいい。

と喧伝した。

すなわち、監察官の姓名は「梁成大」ではなく「梁成犬」である、というのである。

世人はそれを真似て、梁成大を「犬」、もう一人、史彌遠の腹心であった李知孝を「鷹」と呼んで蔑み、かつ畏れた。

・・・以上です。

では。

・・・と思ったら、

わんわん!

と文句を言うやつがある。

「文句? 文句でしたら「ぶうぶう」では?」

と思うかも知れませんが、「わんわん」である。

なぜならばこのとき文句を言い出したのはイヌであったからだ。

このイヌは、

「わんわん、羅先生、それはございますまい」

と不平を鳴らすのである。

犬之狺狺、不過吠非其主耳、是有功於主也。

犬の狺狺(ぎん・ぎん)たる、その主にあらざるを吠ゆるに過ぎざるのみ、これ、主において功あり。

イヌがぎゃんぎゃんと鳴くのは、その主人以外の者に吠えるだけではございませんか。これは(知らない者を警戒するなど)ご主人さまにはたいへん役に立つことです。くうん。

今夫不肖之台諌、受権貴之指呼、納豪富之賄賂、内則翦天子之羽翼、外則奪百姓之父母。是有害於主也。

今かの不肖の台諌、権貴の指呼を受け、豪富の賄賂を納れ、内はすなわち天子の羽翼を翦(き)り、外はすなわち百姓の父母を奪う。これ、主に害あるなり。

「不肖」は「肖(に)ていない」ということで、本来そうであるべき状態から外れていることをいいます。「不肖の子」は立派な父に似ていないダメな子。「台諌」は天子を諌めるを職とする官をいう。ここでは監察官の梁成大のことを指している。

「翦」について。「前」という字はもともと、「足を、お盆(「月」の部分)の水で洗い、これに「刀」を添えて爪を「切る」を表す。「翦」(セン)は鳥の羽を切って飛べなくすることじゃ。

今、あの、監察官としては本来ありえないような行為をしている梁成大は、権力を有する貴人の指揮命令を受け、あるいは富豪から金品を賄賂として得て、朝廷の内においては天子さまの翼(ともいうべき、お二人)を切り取ってしまい、朝廷の外においては人民どもの父母(ともいうべき、お二人)をその地位から取り去ってしまおうとしている。これは、ご主人さまである天子さまに害を及ぼしている、ということですよ、わんわん。

「なるほどのう」

犬亦羞与為伍矣。

犬もまたともに伍をなすを羞ずるなり。

イヌも、梁成大などと同列にされるのを恥ずかしがるのだな。

ということがわかったのである。

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以上、「鶴林玉露」丙巻二より。ドウブツと話せる力のあるひとはいいですね。

ところで羅大経というひとについて、以前、南宋後期のひとという以外、ほとんど伝が伝わらない、と申し上げたのですが、うそでした。

このたび、「羅大経生平事跡考」(王瑞来撰)という論文を入手した(中華書局・唐宋史料筆記叢刊「鶴林玉露」所収)のです。

同論文によれば、羅大経の生年は慶元元年(1195)以降そう遅くない時期で、生地は江西・吉水であること(これは「月下伝杯詩」の記述をもとに、楊誠斎の晩年と彼の少年時代が重複していることから考察されたもの)、宝慶二年(1226.ちょうど今日の上述のお話の時期です)に進士となり、いくつかの地方官を経て淳祐十二年(1252)ごろに「鶴林玉露」を書いた。

その後、死んだ。・・・のは確かなのですが(まだ生きているなら800歳を越える)、没年は明らかでない。

 

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