安積艮斎の「洋外記略」は、
連月無雨、極熱不可堪。疑見在赤道下。
連月雨無く、極熱堪うるべからず。赤道下に在るかと疑いて見る。
この数ヶ月、雨も降らん。とにかく熱波である。がまんできん。なんとかしてくれ。まるで「赤道」なるものの下にいるかと思うぐらいじゃ。
たる日々(嘉永元年(1848)のことのようである)、たまたま西洋の書(の翻訳されたもの)数種を読んだところ、
奇事異聞累々而出、神寒骨冷、又疑身転而行雪山水海之間、不覚烈暑困人也。
奇事異聞累々として出で、神寒骨冷、また身は転じて雪山・水海の間を行くかと疑い、烈暑のひとを困ずるを覚えず。
すごい変なこと・今まで聞いたこともないこと、が次々に書いてあって、こころは寒々として体の芯は冷え、今度はこの身を転じて雪の降り積もった山、大海の涼しげなるところに移動したかと疑わされた。激しい暑さにやられていたのがウソのようじゃ。
というて、読んだところの奇事異聞をメモしたものである。
その内容はともかくとして、その中に、
1俄羅斯
2都児格
3紐由爾倔
4閣龍比亜
5閣龍
6話聖東
7反金数別児倹
という固有名詞が出てくるのです。
ちなみに1〜4は地名、5〜7は人名。
みなさんはなんと読まれますか。
・・・答えはまたそのうちに教えてあげまちょう。ちなみにわたしは7のひとがわからん。
艮斎・安積重信は奥州郡山のひと、寛政三年(1791)、安積国造神官家に生まれ、少年時代に豪農の婿養子となるが、容貌がミニクいので家内で孤立し、家出して江戸に向かい、佐藤一斎家の下男として住み込んだ後、その学才を認められて一斎門人、後に林述斎の門人に移り、二本松藩儒、幕府昌平黌学官となり万延元年(1860)没。
という立志伝中の人物である。たいへん学問にはドリョクされた。タバコの脂を唾に和して目に塗りて睡魔を退けて読書したという。また、
「(後に一斎の女婿となるライバルの)河田(迪斎)は、家富みて常に仙台袴を着くる位なりける上、容貌秀麗にして進退閑雅なれば、甚だ先生に愛せられ、・・・予は家貧にして衣は膝を蔽ふに過ぎず、容貌は此の通りなりければ、常に(一斎)先生に疎んぜられ、雲泥の違ひなりし。」
と自分で言っているので、ひどい目にあったのでしょう。(「仙台袴」というのはかなりかっちょいいものなのでしょうか。)
一応晩年の肖像の写真が遺っているのですが、それを見る限りは、容貌はおれら程度ではないかと思われる。
(以上、明徳出版社「叢書・日本の思想家31 佐藤一斎・安積艮斎」平成20.3を参考にした)