南宋の洪容斎先生が久しぶりで御講釈くださる。
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紹興戊午年のことである。ということは1138年である。
この年の冬、呂丞相は天台におられた。
呂丞相は、呂好問、字・舜徒のことでしょう。
呂好問は北宋末の侍講(天子の教師)として令名高かった学者・呂希哲の子、靖康の変で徽宗上皇・欽宗皇帝をはじめ主だった皇族方が金国によって北方に連行された後、徽宗の兄・哲宗の未亡人で、開封に残されていた元祐太后に、江南で即位を宣言していた高宗皇帝に当ててその即位を正統化する密書を書いてもらい、危険を冒して高宗皇帝の下に届けて、
宗廟獲全、卿之力也。
宗廟の全きを獲たるは卿の力なり。
我が王朝が存続できたのは、卿のはたらきのおかげじゃ。
と感謝され、尚書右丞相の職についた敏腕にして果断、しかもすぐれた学者でもあったエラい政治家である(宋史巻362)。
高宗皇帝には徽宗上皇の庶子である、という以外に即位について何の正統性も無かったのですが、首都に残った唯一の皇族である太后が幼帝の摂政になったときのように一時的に国権を掌握し(これを「垂簾聴政」((女性なので、お顔は直接にさらさず、)簾を垂らしてその向こうから政りごとをお聴きになる)といいます。意外?なことに、宋代では何度も女性が最高権力者となって政権の危機を乗り越えるこの手法が用いられている)、その上で北方に連行された欽宗皇帝の跡目を高宗に継がせる、という判断をした、ということにして、北宋と南宋の皇統が合法的に繋がった、ということになったわけです。
「ああ、よかった、よかった」
ということに思えますが、やはり政敵はおりまして、攻撃を受けて、このときは隠棲して浙江の天台山中にいた。
その族婿、すなわち呂氏の女を娶っていた李修武は、隣の隣県に当る会稽府の虞氏の館に仮住まいしていたのであった。
李修武が、しんしんとばかりに雪の降る晩に、家族とともに晩飯を食っていると、
一走卒以丞相書至。
一走卒、丞相の書を以て至る。
使いの者がひとり、呂丞相からの手紙を持ってやってきた。
使いの者は、自分は陳といい、丞相のもとにいる卒である、と名乗った。
李接書展読。
李、書に接して展読す。
そこで李はその書を受け取り、広げて読んだ。(その内容はこの時点では李にしかわからない)
家族の者が見守っている中で、李は手紙を見て、ひとり神妙に頷いている。
次いで、その陳という使いの者は、家族の者たちにも聞こえるように、
「書中にございます天台府の某という提轄(警察署長)は、李さまの以前よりのお知り合いとのことですが、既にこの会稽の街の外れにございます大善寺まで来て飲食の準備をされ、李さまのお出ましを待っておられます」
と言上した。
李は書を畳み直して懐ろに入れ、
「よろしい。着替えてまいる」
と答えて奥に入って行った。
・・・・そのまま、
久不出。
久しく出でず。
いつまで経っても出てこない。
そこで、妻が行って見てみると、
見在圃内池水上、身没至腹矣。
圃内の池水上に在りて、身の没して腹に至れるを見る。
中庭の池の中に入っていて、その体は腹まで水中にあった。
雪が降る晩、李は、凍りはじめた水の中に入り込んで、ひとりにこにこと笑っていたのだ。妻は急いで下男を呼び出して一緒に池の中から李を引っ張り出した。
李の体はたいへん冷え切っていたが、すぐに火の側で温めたので何とか一命は取り止めた。
はじめなお恍惚としていたが、やがて妻と下男に向かって、怒ったように、
適与某提轄飲梅花酒、楽作正歓。而爾輩挟我出、不能終席、殊敗人意也。
たまたま某提轄と梅花酒を飲み、楽しみ作こり正に歓ぶ。而して爾ら輩、我を挟み出で、席を終うるあたわず、ことに人意を敗れり。
「某署長と会って、梅花酒を飲んでおったのじゃ。楽しくなり、歓びに浸っていたのじゃ。そこへおまえらが来て、わしを二人で引っ張って連れ出しおったので、宴会の最後までおられんかった。わしも不愉快じゃが、署長どのも気を悪くしておられることじゃろう」
怪しからん、と言うのである。
確かに池の四方には、桃と梅が数十本植えられており、ちょうど寒中に白梅が咲くころで、李の濡れた服にも、かすかに梅の香りが漂っていた。
さて、そのときになって、家族の者は最初にやってきた陳という使いの者(走卒)のことを思い出したが、
已失所在。
已に所在を失えり。
もう、どこかに行ってしまっていた。
・・・数日を経て李は正気に戻ったが、さすがに風邪を引いたらしく、半月ほどそれが癒えないでいた。
ようやくその風邪が癒えたころ、天台からまた使いの者がやってきた。前回の者とは別人である。
使いの者が言うには、
「こちらさまにもお世話になっておりました某提轄が、半月ほど前に亡くなりました。そのことを伝える丞相からのお手紙を持たせて、陳という者を使いに出したのですが、この者が途中の乗県の県境で死んでいたのが数日前に見つかりましたのでございます。道端で足をすべらせて崖から落ち、そのまま雪に覆われていて、その雪が溶けてようやく発見されたのでありますじゃ。所持していた券帖(身分証明書)から呂家の者と知れて、わたしが引き取りに来たのですが、何者かに奪われたのか、
独不見丞相書。
ひとり丞相の書を見ざるなり。
預けてあった丞相からこちらへのお手紙だけが失われておりました。」
それを聞いて、李は何か感ずるところがあったようで、
「その書とはこれではないか・・・」
と戸棚から以前、陳と名乗る男から受け取った書を出してきた。
その書には確かに呂丞相の筆跡で、某提轄の死んだこと、その葬儀の日取りなどが書かれていた、という。
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「なんじゃ、なんでそんなことが起こるのじゃ。」
と納得のできない方は、宋代に行って洪容斎先生に聞いてきてください。先生は話し終わると、「それでは」と既にその所在を失ってしまいましたので。わたしが聞きに行ってきてもいいんだけど、宋代は遠いので平日には行けません。「夷堅甲志」巻十三「死卒致書」。