明日は寒いのに朝早く出なければなりませんので、今日は手短にいたします。
1月6日(火)に陳白沙先生のお話しをしました。その続きで、今日は白沙先生のお言葉を一つ二つ読んで、寝ることにしたいと思います。
@「語録」より。
善学者主於静、以観動之所本、察於用以観体之所存。
善く学ぶ者は、静に主として以て動のもとづくところを観、用に察して以て体の存するところを観る。
よく学ぶ者(アカデミストという意味ではありません。「学をするひと」)は、静に重点を置いて、そこに動のもとを理解するものであり、作用を観察して本体がどこにあるのかを理解するものである。
白沙先生は例えば同時代の王陽明に比べて、はるかに「静」の方に力を入れていたと評されるひとですが、その考えは、「動」を認識すための主静であったことがわかる。
A「文集」より。
人具七尺之躯、除了此心此理、便無可帰。渾是一包膿血、裹一大塊骨頭。
ひとは七尺の躯を具うも、この心・この理を除き了してはすなわち帰すべき無し。すべてこれ一包の膿血、一大塊骨頭を裹(つつ)むなり。
ニンゲンは七尺(☆)の体を持っているけれども、心と理という本源を除いては、己れの本体というものはないのだ。物理的には、すべて膿と血の袋が、大きな骨の塊りを包んでいるにすぎない。
☆明代では一尺=30センチ強ですから七尺は2メートルを越す長身です。・・・が、ここでは漢魏のころの一尺=23〜25センチぐらい、を念頭に置いているものと思われる。
この袋は、
饑能食、渇能飲、能著衣服、能行淫欲、貧賤而思富貴、富貴而貪権勢、忿而争、憂而悲、窮則濫、楽則淫。凡百所為、一信気血、老死而後已。
饑えてはよく食らい、渇してはよく飲み、よく衣服を著(ちゃく)し、よく淫欲を行い、貧賤にして富貴を思い、富貴にして権勢を貪り、忿(いか)りては争い、憂いては悲しみ、窮すれば濫(みだ)れ、楽すれば淫す。凡百の為すところ、一に気血に信(まか)せ、老い死して後に已む。
ハラが減ったら食う。のどが渇いたら飲む。衣服を着ることができ、エッチをすることができ、貧しく賤しいときには富みて貴きを望み、富みて貴きときには権勢をむさぼるのだ。頭にきたら争い、いやになったら悲しみ、困ったときにはいい加減になり、楽なときにはやり過ぎる。たいていのひとのやることは、欲望や血肉の求めるところに任せるばかりで、老いて死ぬまでそんな生活である。
ということは、
則命之、曰禽獣可也。
すなわちこれに命ずるに、禽獣と曰うも可なり。
そういうことで、この(ニンゲンという)モノを名づけて、禽獣(ドウブツ)というのがよろしかろう。
これはそのものずばりの「禽獣論」という文章ですが、これを読むとかなり自意識過剰・自己嫌悪のひとの香りがします。こんな感受性のひとなのか。なんだか「青春のおれ」と似ているぜ。それなら、数年の間、堂にこもって考え込んだのもムベなるかな、という気がしたりしませんか。
以上、「明儒学案」巻五より。もっと話したいことはあるのですが、何しろ明日は・・・げげ!もうこんな時間か・・・。(来週は次のひとの伝に移るよー。楽しみにしててくださいね。)