やっと週末になりました。ちょっと落ち着いた感じなので、先週に島田で調べてきた置塩棠園というひとについて少し紹介しておきましょう。
安政二年(1855)駿河国島田宿の本陣職・置塩(おしお)真楽の四男として生まれ、名は維裕、字を季余といい、後に棠園(とうえん)、あるいは聴雲楼(ていうんろう)と号す。明治三年に長兄が、翌四年に父・信楽が没し、他の兄が養子に出ていたため、置塩家の家督を継ぎ襲名の藤四郎を名乗った。
本陣職廃止後は漢学の知識を生かして小学訓導、静岡県学務課に勤務の後、郡長を経て退職し、上京して漢学修行。
明治三十三年(1900)、伊勢神宮庶務課長(神宮神官)に任命されて三重県宇治
大正六年(1917)、推されて郷里・島田町の町長選挙に出馬し当選、二期務めて大正十四年退職。町内に設けた聴雲楼で詩作や揮毫の日を送り、昭和三年(1928)に亡くなった。
学は、祖父の代より古義学(伊藤仁斎学派)を家学としたという。「檄毛生出故廬」詩は、
天行健不暫休止、 天行は健にして暫くも休止せず、
人位其中湏相比。 人はその中に位して湏(マツ)に相比す。
「天行健」というのは易・乾卦の言葉で、「天のものを生かせようという働きはたいへんまっすぐで強い」ことをいう。「湏」(カイ)は河の固有名詞ですが、「説文」によれば「沫」(マツ。しぶき)の古字ともされており、ここではその意。
大宇宙の働きはすなおで着実、しばらくも止まることがない。
われらニンゲンはその中にあっては、ちっぽけなあわやしぶきのようなものだ。
ではじまり道学と呼ばれた宋明儒学の用語をたくさん散りばめた七言長詩であるが、その中に、宋儒の思想的営為を称賛した後、
爾来悠々五百年、 爾来悠々五百年、
東海崛起一大賢。 東海に崛起す一大賢。
姓伊藤氏名維禎、 姓は伊藤氏、名は維禎
卓然唱道古義真。 卓然として唱道す古義の真。
(中略)
長子東涯能紹述、 長子・東涯よく紹述し、
大成家学千歳伝。 家学を大成して千歳に伝う。
(下略) ・・・・
それからはるかに五百年。
(チュウゴクの)東の海の国に一人の大賢者が出現した。
伊藤維禎(いとう・これさだ)、すなわち京都・堀河の仁斎先生である。
すっくと立って古いことばの意味の真実を明かにしたのであった。
・・・・
先生の長子が東涯先生であり、よく父の教えを継いで説明し、
父から伝来した学問を大成させて千年の後までも伝(わるようなものにし)た。・・・
と、伊藤仁斎・東涯父子を、宋儒を継ぐ者として称揚しているのである。その間には、例えば王陽明だとか、本朝の儒者でも荻生徂徠、山崎闇斎といった信奉者も多いし個性的なのがおりますが、それらは全部とりあえず無視!してしまうというようなぐらい伊藤仁斎を尊崇していたようです。(もちろん棠園は官吏を務め町長にまでなった常識人ですから、別のところでは別のひとをちゃんと誉めているのですが・・・。)
このひと、町長さんらしく地元の利益になることは素直に喜んでいる。
駿遠之山深且遠、一道奔湍名大堰。・・・
駿遠の山は深くかつ遠く、一道の奔湍、大堰と名づく。・・・
駿河・遠江の山は深く、かつ遠方まで広がっている。(←それはそうですよ、南アルプスですから)
その彼方から一筋の、たばしるごとき水の流れ。わしらはそれを「大井」川と呼んでいる。
この川、幕布時代には何度も氾濫した。堤を壊し田を沈めた。そして悪逆の幕府は、この川に橋を架けることも渡し舟を渡すことも許さなかった。しかし、
王政維新万物改、苦霧愁雲復何在。一朝解禁通舟楫。爾来星霜五十載、今人誰記行路難。
王政維新万物改まり、苦霧・愁雲またいずくにあらん。一朝解禁す舟楫を通ずるを。爾来星霜五十載、今人誰か記せん行路難。
王政復古のご一新で、すべてのことが革まり、苦しい霧・愁わしい雲は吹き去って、すがすがしい朝に船の渡しが解禁された。
それから星移り霜置き五十年、今となっては誰が「越すに越されぬ」旅の苦難を覚えているかね。
そしてついに
今上天皇仁如天、更架鉄梁堅於壘。維時甲子春四月。云々
今上天皇仁天の如く、更に鉄梁を架して壘(るい)よりも堅し。この時、甲子春四月。云々
今上天皇は仁愛なること天の如く、さらに鉄の橋をこの川にお架けくださるのだ、砦よりも堅牢な鉄の橋を。・・・
・・・まだ続くのですが、これは「大井川鉄橋起工式」のあとで賦した、と記されています。
これにより大井川鉄橋は甲子園ができたのと同じ年に起工されたことがわかりました。ああ勉強になった。ちなみに大正甲子年は十三年(1924)なので関東大震災の後なのですか。架け替えかも知れません。が、わたくしは「鉄道ファン」ではないのでこれ以上は追求しないでおきます。(鉄道ファンのひとは調べてみていただいても結構です。)