↑立派なやつも少しはおるかのう。

 

平成21年 1月27日(火)  表紙へ  昨日に戻る

1月20日の続き。白沙門人の第二回。

陳白沙の門人のうち、今回は張東所のことを紹介します。

張詡(ちょう・く)、字は廷実、号して東所といい、広州・南海のひと。白沙と同郷である。若くして白沙の門人となった。

白沙、東所を評していう、

廷実之学、以自然為宗、以忘己為大、以無欲為至。即心観妙以揆聖人之用。其観於天地、日月晦明、山川流峙、四時所以運行、万物所以化生、無非在我之極。

廷実の学は自然を以て宗と為し、己れを忘るるを以て大と為し、無欲を以て至ると為す。心に即して妙を観、以て聖人の用を揆(はか)る。その天地において観るや、日月の晦明、山川の流峙、四時の運行するゆえん、万物の化生するゆえん、我の極に在るにあらざる無し。

廷実(←東所を字で呼んだのである)の学問というのは、おのずからあるままにしようというのがその要点であり、自分を忘れてしまうというのがその大本であり、私欲を無くすというのがその目的である(と言えよう)。自分の心理に即して巧妙な動きを観察することで、孔子の教えの実際の働きを考えようというのだ。その観点から天地の間のことをみれば、太陽と月が明るくなったり暗くなったりするとこ、山が立ち上がり川が流れ、四季の時節がめぐる仕組み、万物が生まれ育つ仕組み、いずれもすべて自分の奥深いところに無いものは無い、ということになろう。

この評語を見ると、東所の得るところは深かったということができるであろう。

成化二十年(1484)に進士となり、病を得て帰郷、六年後に戸部主事の官に就くが父親の喪に服するため辞職し、その後長く郷里にあった。

その間、何もしていなかったわけではなくて、白沙の門人に教授するのを助けていたのである。

白沙先生が弘治十三年(1500)に亡くなったあと、その墓表を書くの栄に辱したのは、あまたある友人・門人のうち東所先生であった。

その「墓表」の末尾に曰う、

先生雖窮為匹夫、道徳之風響天下。天下人心潜移黙転者衆矣。譬如草木一雨而萌芽者皆是、草木蓋不知也。

先生、窮して匹夫たりと雖も、道徳の風は天下に響(とよ)もす。天下人心の潜かに移り黙して転ずる者、衆いかな。たとえば、草木の一雨して萌芽する者みな是のゆえなれども、草木蓋し知らざるが如きなり。

白沙先生は生活は貧乏で、最後は一庶民として亡くなったのであるが、その道徳の影響は天下に風のように響き渡ったのである。天下のひとびと、先生のことを聞いて、ひそかに気持ちを入れ替えたり、黙って改心したりした者はたいへん多かった。これを譬えるに、一雨降ったあと、草木が一気に芽吹く。これはその雨の御蔭なのだが、草木の方はその御蔭だと思わず自分の力だと思っている、というのがよく似ているであろう。

と。

その天下に道徳の風を響かせた功績の幾分かは、東所先生にも帰せられるべきものである。

正徳九年(1514)に南京通政司の左参議に任命されるが、すぐに辞して帰郷した。

このとき、帰郷する前に

一謁孝陵。

ひとたび孝陵に謁す。

一回だけ先帝(孝宗・弘治帝)の陵墓にお参りした。

ので、官を受けてわざわざペキンまで行ったのはそのためであったか、とひとびとは感服したという。

――今日的に見ると単に年をとってヘンクツになった変なひと、にも見えますが・・・。

その後、間もなくして亡くなったそうである。年六十歳にして卒す、というのであるから、生まれたのは景泰(1450〜56)の末ごろであろう。白沙先生より三十年ほど年下であったわけである。

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またすごい時間になってしまいましたが、今日は軽めだったのでこれぐらいの時間で済んでよかった。

「明儒学案」巻五より。このシリーズもいつになったら陽明先生に至り、さらにいつになったら終わることやら・・・。

 

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