まずはこの詩を読みなされ。題は「客亭対月」(客亭にて月に対す。「旅館で月を見た」)。
遊子離魂隴上花。 遊子の離魂は隴上の花なり。
風瓢浪泊遶天涯。 風に飄(ひるがえ)され浪に泊(と)められ天涯を遶(めぐ)る。
一年十二度円月、 一年十二度の円月、
十一回円不在家。 十一回円は家に在らず。
旅人のふらふらした心は、丘の上に咲いた花の花びら(と同じ)じゃ。
風にひるがえされて飛び、水の上に浮かんで、天の果てまでも行ってしまうのだ。
一年には十二回、満月が来るわけであるが、
わしはそのうち十一回は旅の空で見ているのである。
以上、元の蔡蒙斎(※)の増補に係る「聯珠詩格」を本朝の柏木如亭さんが抄出して訳した「訳注 聯珠詩格」(揖斐高校注:岩波文庫)から引いてきた(読み下しと訳は肝冷斎)。
※蔡蒙斎は宋末から元にかけてのひとだが、元朝に仕えることを潔しとしなかったいわゆる「遺臣」である。単純に「元の蔡蒙斎」とだけ書くと怒って化けて出てくるとコワいので注記します。
江戸の終わりや明治の詩だといわれると「さもあらん」という感じですが、これが唐詩だといわれるとなかなか新鮮な味わいがございますまいか。
簡単な詩ですが、「隴」(ろう)という言葉がちょっとわからん。「隴」は一般には甘粛以西の地をいう地名で、山や原野・砂漠が多いので、作者がその地方を旅したとき、原野などに孤立して咲く花などを見ての実感なのかも知れない(@)、のだが、そうすると「上」の字が解せない。ここは「壟」(ろう。畑の畝)を意味していいるのかも知れぬ(A)。ただ詩的なイメージとしては成立しづらい感もあるので、「隴」に「おか」の意があることから、ここでは「丘の上の花」と解してみた(B)。
@
柏木如亭の薬では「隴上」を「そはみち」と訳しており、これは「阻道」で、甘粛の険阻な道のことと解したのであろう。
A
揖斐高氏の注(岩波文庫)が提示している解釈。
B
肝冷斎先生の解釈。
ちなみに柏木如亭大先生の見事な訳を示す(ルビは現代仮名遣いに改めたよ)。
遊子(あんぎゃ)ノ離魂(こころ)ハ隴花(そわみち)ノ花デ、風ニ瓢(ふきとばさ)レ浪(みず)ニ泊(とめら)レテ天涯(とおく)ヲ遶(まわ)ル。月サヘ一年ニ十二度(たび)ハ円(まんまる)クナルニ、十一回(たび)ノ円ハ家(うち)ニ不在(いぬ)トイフモウラミダ。
すばらしい。
じゃあ、どくだみ茶飲んで寝るか。明日の朝までに世界滅亡しろ、ぎゃはは。
・・・と寝ようと思ったのですが、そういうわけにはいかないのです。
今日は、如亭翁の訳業について話すためにこの詩を引いたのではなかったのを思い出しました。(ほんとは彼の色と食と旅の人生についても話したいことは山とあるのですが)
今日は、冒頭の七言絶句を作った、晩唐の詩人・李洞(り・どう)さんのことを話したかったのである。
李洞は字を才江といい、雍(都・長安)のひと、もとは唐の皇族(李氏)の出身だというが、家は貧しかった。
詩を作るに苦吟するタイプであり、しばしば寝食をも廃するに至ったという。ために、同じ苦吟派の大先輩である中唐の詩人・賈島を尊崇すること一方ならず、
遂銅写島像、戴之巾中、常持数珠念賈島仏、一日千遍。
遂に銅をもって島の像を写し、これを巾中に戴きて、常に数珠を持し賈島仏を念ずること、一日千遍なり。
とうとう銅で賈島の小さな像を造り、これを頭巾の中に入れて(いつも頭に載せ)、また常に数珠を持っていて、「南無賈島如来」を毎日千回唱えることにしているのであった。
「念仏」は本来は念じることで、ゲンダイニホン語のように「仏への帰命を声に出して唱えること」ではありませんが、同じようなことだから、一応「唱名念仏」するものとして訳してみました。
このへんで、
「どうもこのひとは変だぞ」
という気がしてまいります。
他人にも賈島を尊崇することを奨め、
洞必手録島詩贈之、丁寧再四曰、此無異仏経、帰焚香拝之。
洞は必ず島詩を手録してこれを贈り、丁寧再四曰く、「これ仏経に異なることなし、帰りて香を焚きてこれを拝せよ」と。
李洞はそのひとに、必ず賈島の詩の一篇を書いた紙を渡し、二度〜四度も繰り返し、
「これは仏教の経典となんら異なるところのないありがたいものでござる。持ち帰ってお香を焚いて、この紙を礼拝しなされ」
と言い含めたのである。
という。
これほど賈島に入れ込んだので、洞の詩は、
逼真於島、新奇或過之。
真に島に逼り、新奇あるいはこれに過ぐ。
ほんとうに賈島の作品に迫っており、新鮮で不思議なところは、時に賈島に過ぎるところがあった。
といわれるほどであった。
冒頭に引いた詩などはそうだと思いますね。
しかし、
時人多誚僻渋、不貴其卓峭。
時人多く僻渋なるを誚(せ)め、その卓峭(たくしょう)を貴ばず。
同時代のひとたちは、たいてい彼の詩がクセがあって晦渋なのをそしり、その卓絶して険しい詩風を尊ばなかった。
戸部侍郎にまでなった山陰の呉融など数少ない理解者がいただけであったという。
李洞は昭宗(889〜934。唐の最後の皇帝・哀宗の一代前の皇帝)のとき、三度、科挙試験を受けたが、
凡三上不第。
およそ三たび上るも第せず。
三回とも及第しなかった。
皇帝が崩御したあと、当時の試験官であった宰相に、
公道此時如不得、昭陵慟哭一生休。
公道この時得ざるが如く、昭陵に慟哭して一生休せり。
どうも公平な政治はこの時代には無いようでしてな、昭宗皇帝の陵墓の前で声を上げて泣き叫んで、生涯を終えようかと思います。
という僻みをこめた詩を献上し、自分を採用してくれるように訴えたという。
こんな性格であるから、もちろん、
果失意、流落往来、寓蜀而卒。
果たして失意、流落往来して、蜀に寓して卒す。
結局意を得ることあたわず、各地を行き来しながら流れ落ちていき、四川に仮住まいしていたときに亡くなった。
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以上、元の辛文房「唐才子伝」巻九によった。才能がある変なひと、ですから、当然ながら落ちぶれて流浪して行かねばならない、のである。才能の無い変なひと、は勤続二十五年ぐらいで流浪するのではなかろうか。