昨年12月23日の続き。
成化十八年(1482)、布政使の彭韶、都御使の朱英の二人がともども書を皇帝に奉って曰く、
国以仁賢為宝。臣自度才徳不及献章万万。臣冒高位、而令献章老林壑、恐坐失社稷之宝。
国は仁賢を以て宝と為す。臣ら自ら才徳を度(はか)るに献章に及ばざること万万なり。臣ら高位を冒し、而して献章をして林壑に老いさせしむるは、恐らくは坐して社稷の宝を失うならん。
「献章」はすなわち郷里に帰って子弟を教えて十数年、この年で五十五歳になる白沙先生・陳献章のことである。
慈愛に満ちた賢人という人材こそ、国家の宝でございます。さて、やつがれどもが自らの才能と徳を考えてみますに、広州の陳献章の一億分の一ぐらいにしか及びませぬ。そのやつがれどもが高い位に就かせていただいておる。その一方で、陳献章をこのまま森林・山岳中に老いさせてしまうのでは、国家が宝をみすみす失ってしまうのと同じでございます。
要するに、陳白沙を官職に就けるよう推薦したのだ。
帝はこの推薦を入れて白沙をお召しになった。そして、都に参上した白沙に対して、大臣を通じて吏部(人事院)において行う試験を受けるように命じた。これは進士及第の資格を与えて高級官僚として仕事をさせたい、という御意志である。
これに対し白沙は病と称して試験を受けず、さらに書面により言上して郷里に帰って老いを養いたいと申し出た。帝はこれを許し、翰林院検討(詔勅の案文を審査する職)に任命した上で帰郷させた。
ここで問題が生じました。
何が問題でありましょうか。
出処異与師。
出処、師と異なる。
仕えたり辞めたりするやり方が、先生と違っているではないか。
ということが問題となったのです。
ここで先生というのは、呉康斎先生のこと。康斎先生は11月25日の記事にも書きましたが、天順(1457〜64)の初めごろ、帝から呼び出されて官職に就くよう求められたが受けず、賜り物だけもらって帰ってきた。それなのに、なんと、な〜んと、弟子の白沙先生は官職に任命された上で帰郷してきたのである。
なんということであろうか。
――そうは言っても、いろいろ事情もあるだろうし、官職を受けたといっても任命されてすぐ帰郷しているので、年金の対象にはなるが批判されるほどのことはあるまい。
と思うのが普通のわれわれの感じですが、チュウゴクの文化人の世界のひとたちはそこらへんが普通ではないところがあります。
「これは怪しからん」
ということで批判するひとが相次いだ。白沙先生は
康斎先生は当時の権力者で、非道な振る舞いのあった石亨の推薦で上京させられたので、義として職を受けることはできなかったのである。これに対し自分を推薦してくれたのは良臣であるし、自分はもともと太学の学生であり、ずっと正式に官職に就きたいと考えていた。その気持ちに正直に振舞ったのみで、
不敢偽辞以釣虚誉。或受或不受各有所宜。
あえて偽り辞して虚誉を釣らざるなり。あるいは受けあるいは受けざるも、おのおの宜しき所あり。
偽善に満ちた辞退を行って、無理に虚しい名誉を得ようとはしなかっただけのだ。わしのように官職を受けるのも、師匠のように官職を受けないのも、どちらもその理由があったのじゃ。
と言い訳していますが、
自後屢薦不起。
自後、しばしば薦めらるも起たず。
その後は、何度か官職の推薦があったのだが、二度と都に向かうことはなかった。
ということなので、やはり批判が堪えたのである。
また、その官職を得るまでの過程についても、自分で言うようにすっきりしたものではなかったようで、先生の死後、尹直というひとがこんなことを言っている。(「瑣綴録」による)
先生初至京、潜作十詩頌太監梁方。方言於上、乃得授職。
先生初め京に至るに、ひそかに十詩を作りて太監・梁方を頌(ほ)む。方、上に言い、すなわち職を授けらるを得たるなり。
先生は都にやってきて、まずはひそかに太監の梁方さまをほめたたえる詩を十首作って献上した。それで梁方さまが皇帝に口利きされ、官職を授けられたのが実際のところなのである。
「太監」は宦官の長官。もちろん梁方さまも宦官である。
また、
及請帰出城、輙乗轎張蓋列槊開道、無復故態。
帰を請いて城を出るに及んで、轎(かご)に乗り、蓋(かさ)張り、槊(ほこ)を列ねて道を開き、また故態無し。
帰郷を願って都を出て行くときには、何人もで担ぐ立派なカゴに乗り、カゴの上には身分の高いひとがつけるカサをつけ、ホコを捧げた従卒たちに先導をさせ、以前の先生の様子とはまったく違っていた。
という。
黄梨※州先生(黄宗羲。「明儒学案」の著者)がいうには、※「梨」の字がほんとは少し違うのは承知していますが、一画だけだからまけておいてください。
尹直は白沙先生とそれほど世代を隔てたひとではない。本当なのか噂に過ぎぬのかはわからないが、この記述が邱文荘によって編纂された「実録」(数代あとで編纂される各皇帝の時代の公式の記録書。次の王朝がいわゆる「正史」を編むときの参考とされる)に書き込まれてしまったため、
可謂遺穢青史。
青史に穢を遺すというべし。
歴史上、汚れた面を書きのこされてしまった。
このことで後々まで白沙先生は立派なひとである。しかし出処進退は潔くなかったのだよなあ、というように、先生を批判するときには必ず利用されることになります。本当かどうかはわからないのですが、邱文荘というひとは官職を受けなかったひとを賞賛するという価値観も持っており、その価値観で書き込まれてしまった可能性が高い。そして正式記録に書かれてしまえばそれが史実となり、批判の材料となる。これがチュウゴクの歴史のオソロしいところですね。(笑)
―――さて。
弘治十三年(1500)、先生既に七十三歳。前年より病の床にあったが、二月上旬に病勢革まり危篤に陥った。
以前より友人づきあいをしていた県知事の左某というひとが、役所に出入りしている医師を遣わしてきた。
詰めていた門人のひとりが、どうみてももう手遅れだと考えて、この医師に診療をお断りしていたところ、ほとんど意識不明であった先生がその門人を呼んでいるというので慌てて病室に向かった。
先生いうに、
須尽朋友之情。
朋友の情を尽くすべし。
友人のありがたい情じゃ。もう効果は無くても受けてやらねばならん。
病室にいながら門人の応答を知っていたのである。
そこで早速医師に診察させ、その調合した薬を
飲一匙而遣之。
一匙飲みてこれを遣る。
ひとさじだけ飲んで、(医師を)帰らせた。
その後また意識を失うと、もう目覚めることなく亡くなったのであった。
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「明儒学案」巻五より。今週はまだまだ長い。